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三井美唄鉱業所臨時事務所『足跡 : 三井美唄35年史』,1964.5., pp.4,5
[徳田与三郎は] 明治42年,所有三鉱区のうち盤の沢鉱区29万坪の鉱区の試掘にかかったが一時中絶,大正2 年炭況好転に伴い再び事業を開始「徳田炭鉱」の経営に当ったもので,昭和16年三井鉱山に吸牧きれるまで存続した。‥‥‥
次の第二陣は, 明治27, 8年ごろ黒柳金二郎氏が現在の三菱美唄地区の鉱区を獲得, これが44年飯田延太郎氏の手に移り「飯田炭鉱」として発足,大正4 (1915) 年三菱合資会社に買収されるまで続いた。
これが大正7 (1918) 年三菱鉱業株式会社に移管され今日に至ったのである。
なお明治40年には石狩石炭株式会社が美唄川上流の石炭開発,搬出の目的で私設専用鉄道の敷設工事に着手したが,大正3年11月に貨客を扱う軽便鉄道として竣工,看板も「美唄鉄道」と改め,沼貝(現美唄炭山駅),我路の両駅が開設された。
これが現美鉄の創始である。
このように美唄の炭鉱はまず美唄川に沿ういわゆる "三菱の谷" 方面から始まった ‥‥‥
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『美唄市史』,1970, pp.442-444
石狩石炭株式会社
美唄川上流一帯の鉱区を組織的に開発しようと計画したのは,石狩石炭株式会社であった。
明治39年の創立で,資本金375万円,社長には財界の大物浅野総一郎が就任した。
石狩石炭は,日露戦争直後の好況を背景として,北炭に対抗する大構想をもっていたが,幌内はいうに及ばず夕張,歌志内方面の有望炭田は,北炭の独占的な形で事業が行なわれており,石炭の輸送手段をもたない石狩石炭は,大資本を投下するにたる鉱区はなかった。
そこで着目したのは,いまだ開発されていない美唄川上流であった。
浅野は,美唄川上流の開発には非常な熱意をもって当たり,会社創立まもないころ,自ら悪路の中を駕籠に乗って視察したといわれている。
その結果,専用鉄道の建設から着手した。
この計画は鉄道の国営移管によって縮小されたが,はじめの予定は美唄炭山から月形を経由して石狩湾を結ぶ全長198kmに及ぶ大規模なものだった。
明治40年(1907) 5月,いよいよ開坑式を迎え,前途洋々たるものがあった。
しかし,翌年の秋ごろまでに坑道約350m,風道約150 mが掘進されたが,まだ炭層を確認することができず,ヤマ(炭鉱)の未来に不安がつのりつつあった。
明治42年,札幌の黒柳金二郎と鉱区の問題で係争事件が起こり,開始したばかりの事業を休止した。
この事件は,明治44年,石狩石炭の敗訴となり,さらに美唄川上流の開発を目的とした私設専用鉄道は,敷設の期限ぎれとなり,事業も鉄道工事もいっさい休止するにいたった。
飯田美唄炭鉱
黒柳金二郎は,明治27年ごろ,美唄の山で鉱区をもっていたらしいが,明治30 年には,美唄周辺に21鉱区の試掘権を得ていた。
黒柳は裁判に勝ったが,炭鉱を経営する意志もなく,また4年にわたる訴訟費の支払いに苦慮し,黒柳の弁護人であり代理人であった飯田延太郎に鉱区のいっさいを譲渡することになった。
飯田は,明治45年2月,正式に鉱区の譲渡が行なわれると同時に配下の工藤自助が主体となり,炭層の調査を行なった。
飯田は,この山を有望鉱区であると確認したため,開鉱する腹を決め,大正2年11月2日,第1坑を開坑,同時に山名を飯田美唄炭鉱とし,直ちに第2坑の開坑に着手した。
この第2坑責任者は石倉新で,後に新幌内炭鉱を開発し,三笠市発展の功労者としてその功績をたたえられている。
飯田は,開坑に伴う多額の資金調達に苦慮し,三菱に向こう8か年の石炭販売権をゆだねることにより,資金の援助をあおいだ。
大正3年11月,美唄軽便鉄道が開通し,飯田美唄炭鉱は,当時としてまれにみる施設・設備を有し,採炭も順調で,有望視されていた。
大正4年8月24日,飯田美唄炭鉱は突然,三菱合資会社に買収されることになった。
飯田が,売山した原因には諸説があって明らかでない。
いずれにしても飯田美唄炭鉱は線香花火のような短い操業で三菱にバトンを渡したわけである。
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『美唄市史』,1970., pp.475,476
明治44 年,石狩石炭株式会社と鉱区の問題で訴訟を起こした黒柳金二郎は,勝訴とな
り,担当弁護士飯田延太郎に弁護報酬支払のため,その鉱区を譲渡した。
飯田は,翌年の5月から10月にかけ炭層の実地調査を行なった結果,有望鉱区である
ことを確認し,以後,開鉱準備にかかり大正2 (1913) 年11月5日,飯田美唄炭鉱が開鉱した。
飯田美唄炭鉱の概略は次のとおりである。
鉱区 |
飯田美唄炭鉱の保有鉱区は,別表のごとくで,飯田が黒柳から買収した鉱区は,採掘登録第148号・149号・150号・151号で,実際,飯田が開坑したのは,150号と151号の2鉱区である。
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開坑 |
大正2 年11月,ウエンシリアンピパイ川 [下流を向いて] 左岸の美唄本層露頭から開削し
た。
坑口は,石狩石炭株式会社が明治40年につけた坑口から約200m奥にのぼった宝沢の左岸に甲本坑を,さらに約200m奥に乙本坑を開坑した。
大正3 年には,乙本坑から川沿いに約1kmのぼった右岸 (旧三菱2坑付近) に9番層坑を設けて採掘を開始した。
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採炭 |
坑内が浅く,したがって払採炭は行なわれず,掘進採炭が主であったが,その後一部は残柱式によるところもある。
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出炭量 |
最初1日の掘進採炭量は約50 tぐらいで,後,坑道の数を増すとともに増加した。
大正3年の出炭量は,次のとおりである。
1月 |
5,800 t |
2月 |
11,150 |
3月 |
12,795 |
4月 |
16,763 |
5月 |
13,000 |
6月 |
13,000 |
7月 |
14,413 |
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運搬 |
石炭の運搬は鉄製レールが敷かれ,炭車は鉄製 (5分積) の鍋形炭車が使用された。
運搬坑道の炭車運搬は馬で弓|いたが,急傾斜の部分は実車の下降する力を利用して空車を引き上げる自転巻が利用された。
また,乙本坑では本卸,左巻,右巻の三つの斜坑には蒸気機関が使用された。
坑口と選炭機を結ぶ約1kmの坑外運搬は,開坑と同時に小型蒸気機関車が引いた。
約30両の空車と実車をけん引し,ピィーという汽笛を鳴らして日に何十回となく往復した。
9番層坑は,乙本坑からウエンシリアンピパイ川に沿って約1km も奥にあるため,石炭の輸送は非常に不便であった。
夏はほとんど運ぶことができないので貯炭し,雪が降るのを待って馬そりで川沿いに約2kmの道を選炭場まで輸送した。
選炭場から美唄駅までの10 km の道は,最初馬搬であった。
夏は馬車,冬は馬そりで幾頭もの馬が列をつくり運搬していた。
大正3年,美唄鉄道の開通とともに鉄道輸送に切り替わった。
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保安 |
飯田美唄炭鉱は通気回りが非常によくて,全道の石炭業界でも評判であった。
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その他施設 |
大正3 年,機械工場としてかじ場,仕上場,旋盤を設定した。
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選炭 |
選炭は手選で約100名が従事していた。
石炭は塊炭,粉炭,切込みの3 種に選別していた。
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