Up 三井美唄炭鉱の町づくり 作成: 2024-02-07
更新: 2024-02-27


     川島 (1933), p.905
     事務所、工場、病院、學校、佳宅、浴場、供給所等は総て之れを選炭場附近に集中し、諸建物は安く丈夫に防火的にして而も使用に便利ならしむるを主眼とし、材料は實際に耐久力ある丸太材、押角等の使用を多くし,屋根は從來の柾葺板葺を全廃し、坑外運搬軌道上家に至る迄総て亜鉛引鐵板葺とせり。
     猶各建物の配置に付ては特に細心の注意を払ひ,作業の簡易化、人員経費の節約を考慮し、其位置を定めたるものにして、‥‥‥
     事務所と病院は,廊下を以て連絡し (途中防火壁を設く) 給仕小使を共用し(2名を減少)。
     倉庫供給所は,共に鐵道岐線に沿ひて建設し、且材料運搬線側にもフオームを設け、着貨の荷卸庫入及出品の臺車積を簡便容易ならしめ,人力を節約し、諸掛の輕減を計れり (貨物1瓲當り20銭即ち從來諸掛の約50%を節し得たり)。‥‥‥
     坑夫住宅は,石狩平野の全貌を眼下に眺め高燥景勝の地を選び、敷地を廣くし (1戸當60坪),別圖に示せるが如く4戸建、若しくは2戸建,1戸3室とし,所謂坑夫長屋式観を脱却し、居心地よきものとする事に努めたり。

川島 (1933), p.905


    三井美唄は,三井美唄炭鉱が発足 (1928年) して間もない頃から 1962年までに,つぎのように大きくなっている:
川島 (1933), p.905
国土地理院空中写真 (1962)


    札幌市街地の大きさと比べると:
札幌 (Google マップ, 2011-04-21)



    以下, 『足跡──三井美唄35年史』所収の
      茂泉透「ふるさと三井美唄」, 炭層 39号, 1956.6
    に出てくる場所を,国土地理院空中写真 (1962) と「三井美唄礦業所坑外圖」の上に記してみる。

      『足跡──三井美唄35年史』, pp.81-85.
     そうだ。君が住んでいた家 (君は1度転居したが,遊園地跡に建った社宅の方さ) の前の俺達が泥鰌泥鰌(ドジョウ)すくいに夢中になった一の沢川は,時時選炭水が流されるせいか事務所,病院附近をすっかり護岸してしまった。 そのためか俺達のその昔と同じことをしている子供逹を見ない。
    その向いはあの頃は病院の下にバレーコート,その下は或の土建業者の住宅跡を社宅に仕切って使い,そのあとはそれもとっぱらって,テニスコートになっていたな。 俺達はテニスコートで野球や,小運動会,又或時は "けりうま" 等をやって会社の人に叱られたもんだが,今の子供は大したもんだ。小学生でも立派にテニスをやっている。
     その下,道路をはさんで案内所の後が草原だった。 そこは戦後,バレーコートからテニスコートに変っている。 テニスコートは3面だ。このコートで一昨年は,"全道都市対抗硬式庭球" をやった。 昔はあまりやる人もいなくて,むしろ俺等の遊び場だったテニスコートも,今は我々のリクリエーションの場所として非常に有効だ。 俺の記憶では,昔は何年かに一度4社対抗 (今は三井事業所対抗となっている) というのがあったきりだが‥‥‥。
     ここから一寸坂を上ってガード。 俺達は何という事なしに,汽車が通るのを見つけると此のガードまで走って来たもんだったが,今の俺は,生後やっと1年の息子を抱いて汽車をみせにこの辺までやってくる。
     ガードをくぐって右が青年学校,左が厚生館だったな。
    今は青年学校が会社の鉱業学校及び家政女学校となり,ヤマの職・鉱員の子弟が勉学にいそしんでいる。 そしてここからは幾多の優秀な産業人が当所の各職場へ送り出されている。
    学校の隣りが図書館になっている。 蔵書は約6000冊,昔は図書館はなかったな。

    鉱業学校,家政女学校,左側は図書館

    厚生館は昔のそれより倍以上に大きく又立派になり,その名も労働会館として凡ゆる集会に利用されている。 美味しい各種料理も出来る。 我々の同期会もここでやる。‥‥‥

    厚生館,左側は労館

     さて労働会館の隣,互楽館ではないんだ。 旧互楽館の内部を改装して体育館として使用しているんだ。 主として剣道部,卓球部が練習しているが,時々社交ダンスの会,又は可愛いい幼児も交えてバレ一等もやっている。 君が居た頃は畳敷だったし,学芸会で浦島太郎や,牛若丸をやったのも此処だった。

    体育館 (旧互楽館)

     次が昨年1月1日に開館した新互楽館だ。 これがすばらしんだ。 昔の互楽館と比較すると,とに角すばらしい。 札幌の真中に置いても何等遜色のないもんだ。 唯,心ない人により備品等が折々被損される等という事を聞くのは慨嘆に耐えない。

    互楽館
    互楽館内部


      同上, pp.85-88
     一寸大通りを行ってみよう。
    君が知っているのは恐らく5丁目迄だろう。 今は7丁目迄ある。
    道協の両側のローンとアカシヤが美しい緑をなしているのは,昔と変らない。

    大通り3丁目付近 (1951)

    配給所の位置も昔のままだが,矢張り大きく,又外観内容共立派になり,ヤマのデパートとして多くの人に利用されている。

    配給所内部
    冬の大通り
    三美商事 (旧配給所)

    その,向い側が美唄市々役所三井支所だ。
    そうそう君からの年賀状も昭和25年までは,北海道空知郡美唄町三井美唄鉱業所‥‥‥だったが,翌年からは美唄市三井美唄鉱業所だからね。 即ち,昭和25年4月1日,俺逹のふるさとも市制施行と相成ったわけだ。 それで市役所支所が登場し,なにかにつけて随分便利になった。
    もっとも君がいた頃,俺達が市役所 (当時は町役場だったが) まで行ったのは,小学校の5年生だったろうか。 支那事変が始まって間もない頃だった。 級で煙草の銀紙を集めて献納した時位だったと思うが。
    支所の隣が理髪店,社宅内に5ケ所も理髪館がある。 そして市街に2ケ所だ。 昔は市街に2ケ所,後で3ケ所になったけれどな。
     これに隣接して,君も憶えている昔からの浴場,君がいた頃は5丁目と2 つだったね。今はそれが6つになっている。 それにだ,今度は180坪だかの坑口浴場が出来るとか聞いている。
     浴場の向い側,縦の通りを越して,俺逹も始終遊びに行った小公園,此処にはもとの池の跡にプールが出来ている。 もっとも最初は目的として防火溜池とも聞いていたが,夏になると小河童連中で相当にぎわっている。
    隣りは小さい消防番屋だったが,今はスマートな2階建で,消防車が "いざ" とかまえている。

    消防会館

    その隣,駐在所に労務課外勤係。
    その向側社宅だった所に,労働組合,生活協同組合が並んでいる。
    俺達がずうっと幼い頃は社宅もこの辺までだったが,今はこれから先が7丁目まであり,その 向うに散在している光珠内の農家と殆んど隣後している状態だ。
 


      同上, p.88
     大通りより上の方は,俺逹が中学時代すでに山神社は3丁目から5丁目に移っていたし,変ったのは事業用建物が多くなったこと位だ。
    それと互楽館の裏にあった弓道場が山神社の横に移っている。
    下の方は,君が知っているのはおそらく5条通りか6条通り位だと思うが,それが今は16条まで あり,2,3丁目のずうっと下,鉄道の沿線に,中学校と硬式野球場がある。

    三井美唄中学校

    鉄道沿線を上って南美唄駅。 ここは俺逹が中学4年の時,即ち昭和18年1月5日客車が走る様になった頃と大した変っていない。




      同上, pp.88,90
    それから我等が母校三井美唄小学校,ここは随分変った。
     俺逹が入学した昭和9年4月1日。 あの頃はたしか屋内運動場もなく,入学式も広教室と称する場所だったな。 そして教室は僅か6つだったかと思う。 勿論2部授業で入学早々2番方,弁当持参で10時か11時頃登校して1 時間目は大体屋外で体操の時間,という日が多く,午後からは眠くて仕様がない日のあった事を記憶している。 俺逹が3年生か4年生の頃に立派になった校門は昔のままだ。(注i昭和28年30週年記念で再建) ここを入って右側の必ず最敬礼をした奉安殿はなく,落葉松の林跡にも2階建の校舎が建っている。 広教室だった場所,此処は俺等が卒業する頃は学校の畠だったが,立派な屋内運動場になっている。 屋内運動場は,俺達が3年生頃だったろうか,新たに建って,空知管内1番天井の高い屋内運動場だと自慢したのと,2つあるわけだ。
     それから,教室は64 とか65 とか聞いている。 繰返すが,昭和9年に入学した時6 つだった教室が,昭和15年3 月,6年生を卒える時は19,それから10数年を経ったとはいえ,現在は60以上というのだから全く驚くべきだ。 生徒数は約3100名,先生は70名以上で,小学学校としては日本ーで,現在は分校設立問題もおきている。 1校で児童数が3000名以上なんていうのは良い教育をする為には色々な困難を伴い,種々の障害があるんだそうだ。 それにやがては教室が足りなくなって2部授業もやらなければならなくなるそうだ。 俺の経験上,このような可哀想な事はやらせたくないものだと思っている。
     3 年生の時だったな。それ迄美唄の小学校に通学していた高等科生がこの小学校へ通う様になったのは。 その日の朝礼で校長先生が "今日から本校生徒は900 名になった" と云われたのを記憶している。
     4年生の冬だった。他校選手候補者が選ばれて冬季練習を開始したんだが,その時体育係のK先生が "美唄町内で約1000名もの生徒を有する学校は2つか3 つしかないのに,その中で他校選手がふるわないのは本校だけである。よって今年は今から練習を開始する" と張切っちゃって,俺逹はフラフラになる迄,縄跳やスタート,バトンタッチの練習をやらされたのを思い出す。 そのためか優勝旗は何本となく集まった。 話が横にそれちゃったが,あの頃高等科も含めて漸く1000名位だった生徒は,今は6年生迄 で3100名位になっている。 俺達と一緒に入学した1年生は,赤組と白組の2学級だったのが,今年の新入生は14か15学級とか聞いている。
     生徒が多くなり,校舎が大さくなるに従って,廻りの空地も少なくなり今の生徒逹は,俺逹の頃の様に休時間も楽しむこともできないだろうと思う。


      同上, pp.90,91
     あの頃は校門からバスの発着点までは殆ど家屋がなかったが,今は駅の附近からずうっと軒並みだ。 これほど市街も大きくなっている。
    古い人に聞いてみたら,俺達の子供の頃 "のみや" は3つしかなかったそうだ。 それが今は "そばや" や "すしや" も加えて,とに角それ的な所が 14, 5はある。
     ‥‥‥
    中学時代,市街を通って美唄駅迄歩いた頃は,三井劇場附近から崖下までの間は寺がポツンとありその向いには殆ど家屋がなかったが,三井劇場は2,3年前大分模様替の上,ダイヤ劇場として発足,そしてこの附近から崖下とよばれていた下栄町迄,道路の両側共ぎっしり店や住宅が並んでいる。


      同上, p.91
     職員社宅は, 小学校へ入る頃,未だ病院の下から所長宅迄位だったな。
    それが段々多くなって中学の頃は,下は,寒さが殊に激しいので "樺太社宅" とよんでいた沈澱池より美唄川の方の社宅。 上はスキーで一本松へ登る途中通った山の上にも大分並んでいたな。
     まだ多くなっている。
    君が住んでいた事があったクラブローンの下,沢の側の家 。 水田だった沢は埋立られて, 君が住んでいた家の隣に駐在所がある。
    沢の向こうに農家と広い畑があり. もう一つ沢の向うは俺逹も始終遊んだ射撃場だった。 ここまで社宅が並んだ。
    農家と畑だった所は東町,射撃場は旭町と称している。
     註: "樺太社宅" は「北町」に



    職員住宅区は,沢が切れ込む地形のところで,拡げることになった。
    そしてこれを,沢の両岸をダムの形状の土手でつなぐという方法でやった。
    ダムの上を歩いて渡る格好である。
    沢の水は,盛土の下に設けたトンネルを通す。
    地震で崩壊しそうなものだが‥‥  工法や如何?


  • 引用文献
    • 川島三郎「美唄の探炭計晝に就て」, 日本礦業會誌, Vol.49 (No.584), 1933., pp.887-909.
    • 三井美唄鉱業所臨時事務所『足跡──三井美唄35年史』,1964.