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白戸仁康(監修)『目で見る 岩見沢・南空知の100年』, 郷土出版社 , 2004
沼貝炭鉱は大正4 (1915) 年,美唄川支流一ノ沢流域で開発に着手。
同7年には九州から現役坑夫60人余が入山するなど,坑夫は400人を超えた。
しかし同年に「沼貝炭坑争議」が発生。
同13 (1924) 年には第一次世界大戦後の不況で,日石光珠炭鉱に買収された
沼貝炭鉱住宅街 (1921年)
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『美唄市史』,1970. p.476
位置 |
南美唄町三井美唄ーの沢
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鉱区 |
採炭登録 第112号 第221号 第256号 第263号
面積 2,066,164 坪 (約689 ha)
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鉱長 |
小布施順次郎 (大正5年ころ)
菅六郎 (大正12年ころ)
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沿革 |
本鉱は明治42年10 月,対馬熊雄が試掘権を得ていたが,その後明治44年11月,高橋儀平の手に移り,さらに大正6年3月,増田新作から大阪の田中省三 (田中汽船株式会社) が入手し,翌7年,採掘権に転願した。
田中汽船は,鉱名を沼貝炭鉱と称し,諸般の設備をなし,大いに発展すべき計画であったが,大正9年以来の不況のため,大正13 年3月17日,日本石油株式会社の光珠炭鉱に買収された。
しかし,大正8年ころは景気もよく,鉱員175名 ( 男142名,女33名) 出炭量は三菱美唄砿に次ぐ炭鉱であった。
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出炭量 |
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大正7年 |
19,456 t |
8年 |
50,178 |
9年 |
12,795 |
10年 |
14,158 |
11年 |
24,861 |
12年 |
23,597 |
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炭質 |
一般燃料用 7,000 cal
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開始
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三井美唄鉱業所臨時事務所『足跡 : 三井美唄35年史』,1964.5, pp.6,7
大正時代に入り3年8月,バルカンの一角に鳴りひびかた一発の銃声から戦火が起り遂に全ヨーロッパは挙げて戦乱の巷と化し,5 年余にわたる第一次大戦が勃発した。
日本も日英同盟により8 月2 3 日対独宣戦布告に踏切り ,連合国側の一員として起った。
この大戦のえいきょうを受け,日本の経済界は空前の好況に見舞われ,鉱工業も活況を呈するに至った。
当然炭鉱にもブーム到来,各地に続々と中小炭鉱が誕生を見た。
それまで殆んど動きのなかったーの沢方面(当所)のヤマに,お隣りの飯田炭鉱,徳田炭鉱などの活発な動きが反映し.ここに始めて他所資本による本格的な炭鉱企業が鼓動を打ち出すに至った。
大正4年. 大阪に本社を置く「田中汽船鉱業株式会社」が美唄に進出してきた。
同社は大正元年に鉱業部を創設,既に滋賀県蒲生郡で金山,青森県下北郡で銅山などの経営をしてきた為,ここに北海道での炭鉱経営をも加えたというわけである。
同社では4月に本吉清作氏を責任者とする開発班を派遣,開坑準備に当らせた。
一行は金山の坑夫12名,ほかに事務員を1名とその家族などであり,本吉氏は美唄駅前の吉積旅舘 (現美唄ホテル・空知信組) に陣取り,作業隊はーの沢の奥に丸太造りのバラック小屋を建てて仕事にかかった。
これが「沼貝炭鉱」のスタートである。
翌5年新たに所長兼技師長として東大工学士の小布施順次郎氏が着任,陣頭釆配をふるった。
実際出炭し始めたのは大正6年以降で. この年留萌炭田の「大和田炭鉱」から役員11名(技術者6,事務系5 ),坑夫25,6名が移入され,陣容が強化されるとともにーの沢右股 (現通洞坑口附近,向って右の沢奥) から左股にかけ. 沼貝層の採掘にかかった。
また奥の沢には住宅建設もボツボツ始まり,事務所も同所におかれた。
大正7年1月愈々本格的営業を始めるべく福岡縣三井大薮炭鉱からバリバリの九州坑夫35, 6名を移入,一行は飯場頭鳥取茂雄氏に率いられ,はるばる海を越え,雪深い "熊笹" の里に乗り込んできた。
続いて同所から第二陣30名も入り,山の陣容も100 名を越えるに至った。
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エンドレス軌道・鉄道引込線
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同上 (続き), p.7
この年,石炭搬出のためのエンドレス軌道がーの沢の奥から現在の三井新橋手前高原商店のある附近まで敷設された。
これは後に灌漑溝の個所にある積込場 (現在もコンクリートの礎石がある) まで延長され,8年には鉄道の引込線も引かれ,た。
エンドレスは蒸気動力の50馬力程度のものであった。
また現在の第一門衛前から南美唄市街地にかけての谷地の真中に道路もつけられたが,これらの土方作業を九州からの移入組がやったという。
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炭住街
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同上 (続き), pp.7-10
現選炭機のあるあたりから奥の沢にかけては,事務所,社宅,合宿,飯場,配給所などの建物も建てられた。
配給所は岩見沢の清水商店が指定され,一手に主食,日用雑貨品などを扱っていた。
沼貝炭鉱の建物の進捗に伴い.商店がボツボツ出来だしたが,現病院玄関前あたりには,美唄の板東万吉氏 (板東浩一氏の兄) により芝居小屋「東座」が建てられ,月二,三回位ドサ廻りの芝居などが娯楽のないヤマの人々へ唯一の楽しみを提供した。
これが三井時代に入り,現美濃組車庫の位置にうつされ三美興業株式会社の経営となり,ダイヤ劇場となり,それも衰微し,現車庫となった。
なお大正6年春,常盤房次氏 (明治26年屯田兵) により美唄電気株式会社が設立され,美唄市街地や我路市街などに電灯がともったが,7年春には沼貝炭鉱へも電灯が引かれるようになった。
末だ荒蔀たるーの沢のやまあいにポツカリとついた "谷聞の灯" である。
この灯が函館本線の車窓からすばらしい灯の海となり,旅人の目を三井のヤマに止めさせた全盛期の灯となったのである。
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多端であった大正7年を送り,8, 9, 10年も沼貝炭鉱の経営は続けられたが. この間大正9年9月4 日付で田中汽船会社名儀で鉱区の出願登録がされた。
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インクライン
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同上 (続き), p.10
当時使用の坑木は,主として落合の山の雑木を使用し,採掘もーの沢右股の斜面に何個所かの水平坑道を掘さくし,これを数段のインクライン(無動力式の簡便な自動捲機で. ロープで荷トロと空車を交互に上下させるもの〕によって現変電所の附近にあった選炭機に送った。
石炭は大体6 千カロリー程度で 粘結炭,日産百五十トン程度を出し,主として室蘭へ送ったという。
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終焉
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同上 (続き), pp.10,11
大正9年2 月5 日に奥の沢に美唄小学校の「特別教授所」が設置され,尋常1. 2年生を収容した。
しかし世界大戦終結による反動的不況の襲来により,炭鉱経営も苦しくなり出した。
大手でない沼貝炭鉱は不況の影響により切り抜けに苦慮した。
大正10年4月,苦境の打開と将来の発展を託したボーリング工場が東京ライソン会社の手で奥の沢に着工されたが,百メート程度で「冷泉」につきあたり,その後の苦心の続行工事も空しく,"新坑開発" の夢も完全に潰えた。
このボーリング跡の冷泉が. 大正12年になり,当時売店を経営していた浜口清治氏が利用した。約40坪ほどの二階建の「浜口温泉」となったわけで,附近の農村人やヤマの人々の憩いの場所となった。
これは三井時代になり廃止されたが,この「冷泉の水」が鉄管で引かれ,現在の厚生舘浴場の「鉱泉」として利用されている。
このような経営維持の努力も遂に空しく,田中汽船会社沼貝炭鉱も不況に抗し切れず,翌11年積込場の火災などの不幸も重なり,遂にヤマは休山となり,若干の残務整理員を除く大半の従業者は他に職場を求めてヤマを去った。
やがて大正13年3 月,沼貝鉱区の奥,落合の地に起業中の日石「光珠炭鉱」への身売り吸収が決り,ここに「沼貝炭鉱」の歴史は終止符をうった。
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『美唄市百年史』, p.429 から引用:
美唄駅前の吉積旅館 (1923年)
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『美唄市史』,1970 p.449
大正4 (1915) 年4月,大阪に本社を置く田中汽船鉱業株式会社が美唄に進出してきた。
同社は,ーの沢の沼貝層の開発を目ざしていた。
本吉清作が責任者となり,その一行は美唄駅前の吉積旅館 (空知商工信用組合の所) を本拠とし,作業班はーの沢の奥にバラック小屋を建て,開坑準備に当たった。
翌5年,新たに所長兼技師長として東大工学土の小布施順次郎が着任,鉱夫は留萌の大和田炭鉱や九州の三井大薮炭鉱から移入され,100名をこえるにいたった。
実際出炭したのは,大正7 (1918) 年からで約1万9,000 t ,この出炭量は,当時の美唄にとって三菱美唄に次ぐ第2の出炭量であった。
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