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美唄市『写真で見る美唄の20世紀』,2001, p.15.
美唄の豊富な石炭が全国に知られるようになったのは、明治7 (1874) )年、開拓使の招きで渡道したアメリカ人地質学者 B.S. ライマンに率いられた資源調査隊の報告書による。
開村以降、徳田與三郎や若狭千代吉ら多数の人びとによって炭鉱開発が試みられ、やがて、明治39年の鉄道国有化によって本格化した。
浅野財閥系の石狩石炭(株)が美唄鉄道工事に合わせて大規模開発に着手し、大正2(1913)年、飯田美唄炭鉱となって実現、美唄川上流域に近代的鉱業施設と大炭鉱住宅街が出現した。
4年4月、北海道進出をめざす三菱財閥が、飯田炭鉱に続いて美唄鉄道をも買収して国内の石炭産業部門の拠点とする。
やがて従業員は三千人を超え、出炭量も8年には北炭夕張に次いで 50万トンを突破し、三菱における国内最大のヤマとして不動のものとなった。
第一次世界大戦の好況で、先駆者の徳田による新美唄炭鉱をはじめ、沼貝・錦旗・茶志内・市川・上村などの中小炭鉱が東部丘陵地一帯に出現し、大正10年には日本石油も、一の沢上流域、落合川との分水嶺近くに光珠炭鉱を開鉱した。
一方、その後の不況下でも出炭量をのばした三菱は、13年に地下170メートルの竪坑の稼動を開始する一方、長壁式採炭を導入するなど機械化をすすめ、やがて滝の沢地区に巨大な自家用発電所まで建設する。
沼員村の人口は三万人を超えて大正14年6月には町制を施行し、翌15年6月、美唄町と改称するきっかけともなった。
そして世界大恐慌前夜の昭和3(1928)年8月、三菱と並ぶ三井財閥が日石光珠炭鉱を買収して三井美唄炭鉱が龍生した。
山奥の坑底から国鉄美唄駅まで直結する輸送路を完成し、沼貝・錦旗鉱区をも買収した三井は、6年から8年にかけて鉱業施設や住宅街、小学校や郵便局など職住すべての拠点を、現南美唄町の広大な扇状丘陵地に移転。
14年には従業員数2600人、出炭量80万トンを突破して三菱美唄と並ぶ巨大炭鉱となり、28 (1953) 年には新美唄炭鉱をも経営下に収める(のち三井美唄鉱業所第二坑)。
三井の炭鉱住宅街は、深い谷間の傾斜地に形成された三菱の炭鉱集落とは大きく巽なり、碁離の目に区画して条丁目を設定し、しかも住宅の周囲に花壇用地まで配した近代的なものであった。
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同情, p.69.
戦時中の企業整備で町内の炭鉱は、財閥系の三井鉱山美唄鉱業所およびその支鉱である三井新美唄炭礦、三菱鉱業美唄礦業所およびその支鉱の日東美唄炭礦の四炭鉱となって終戦を迎えた。
労働者総数約1万6千人のうち 6235人(七月末現在) は、主に坑内労働に従事した外国人労働者であった。
外国人や勤労報国隊などの退山や食料不足などで出炭量は激減したが、21(1946)年に入ると、炭鉱は日本経済復興の制い手に位置づけられ、政府による巨額の資金や資材が投入され、住宅建設や食料援助、引揚者受け入れなどによって急速に活況に転じる。
23年には上村炭鉱も復活し、24年ころから大手炭鉱で大規様な槻械化採炭が導入され、.26年の市内炭鉱の出炭量が 200万トンを突破した。
各炭鉱では住宅の大規模な新・改築によって水洗便所つきの鉄筋アパートも登場し、あふれ出した三井・三菱系の住宅は現在の田園町や落合町、東明町まで進出。
かつての農業地域も大炭鉱住宅街に変貌し、30年代に人るとテレビのアンテナが林立した。
多数の小中学校や高校、専門学校、病院、映画館、球場やプール・体育館などのスポーツ施設も各地区に整備され、多様な芸術・文化が花開き、炭鉱ごとに結成された体育連盟は美唄(市)体育協会の中核となり、国民体育大会はじめ全国レベルのスポーツ大会に多くの選手を送り出していった。
石炭の生産現場では木柱が鉄柱に変わり、採炭器具として外国製ドリルやコールカッターに続いて、無人採炭機まで登場するなど機械化がさらにすすむ。
鉱夫の採炭技術や人海戦術による生産から機械化生産への転換は、同時に人員の合理化につながるものではあったが、昭和30年には、三菱、三井の両旧財閥系炭鉱のほか上村、北菱我路、三舟美明、九州東美唄など七炭鉱が操業。
市内人口約九万二千人のうち、市役所支所・出張所別人口をみると、三菱2万5千人、三井2万人、東明1万2千人、日東4千人などで、炭鉱地区の人口は約6万人にも達していたのである。
国鉄函館本線の夜行列車の車窓から望む東部丘陵一帯は、「満艦飾」とか「不夜城」と呼ばれたが、人馬一体となって泥炭湿地と苦闘する西部の戦後開拓地は、まだ井戸水とランプの生活であった。
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『美唄市史』,1970. pp.464-467
昭和34 (1959) 年,他産業が岩戸景気に酔っているとき,石炭産業は不況にあえいでいた。
しかもこの不況は,周知のとおり,エネルギー革命による危機にほかならない。
‥‥‥ 炭鉱のスクラップ化は,38 (1963) 年度に集中的に実施され,閉山規模 555万t (北海道144万6,000 t ) に達し,炭鉱数は,前年の 418 から 335 となり,5年前の784 に比べると半数以下に減少した。
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