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『足跡 : 三井美唄35年史』,1964.5, p.37
昭和5年共愛組合が設置された。
この機関紙が昭和7 (1932) 年12月25日,"びばい" となって創刊号を発行,ヤマの文化運動のトップを切った。
創刊号は1000部発刊したが,その後は大体800部,4頁建毎月1回 (不定期発行) とし,各戸に1 部宛,無料配布した。
昭和11 (1936) 年3 月,6頁建に増頁発行部数も3000部となった。
内容は当所に関する記事は勿論,一般社会記事,学術,文芸,其の他各方面の記事を網羅し,12頁建の新年号,10頁建の記念号もその都度発行し,閉山までヤマの親しみをもった記事で過した。
く美唄創刊号のために〉S 7 (1932).10.25
所長 川島三郎 [註: 初代三井美唄鉱業所長]
この度,共愛組合の機関新聞美唄の発刊さるるに至ったことは,真に喜びに勘えない。
世の中に新聞の数は多い。
吾等は之によって,日常少なからぬ利益を享けているが,然し之等の多くは営利の目的に縛ばられて,或る場合には読者を犠牲にし,又或者は殊更に過激なる思想の宣伝を試みんとする野心を藏するものもある。
要するに之等の弊害は,新聞と読者とが各々別個のものであって,その間に利害が一致して居らないからである。
然るに吾が「美唄Jの如く,読者は同時に編輯者であり,又発行者であると言う関係にあって,而も発行の目的が唯読者の幸福の増進にのみ限られた新聞は,仮令発行の回数は少く ,紙面は少くとも新聞として大きな価値をもっているものと言わなければならない。
発行者と読者とが同ーのものである新聞の読者は左様な幸福をもっと同時に,その読者は一面に於て又大なる責任のある事を思わねばならない。
何となればその新聞の品位は直ちに読者の品位を表現するものである。
従って新聞「美唄」は即ち共愛紅合員各位の品位を表す尺度である。
この意味に於て新聞「美唄」の発達が,三井美唄鉱業所共愛組合員の堅実な発達であることを希望する。
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