Up 三井美唄の形成 (戦前) 作成: 2023-12-25
更新: 2023-12-25


    『足跡 : 三井美唄35年史』, 三井美唄鉱業所臨時事務所, 1964.5 から引用:
      p.19
    三井美唄鉱の発足当時の規模は,職員51名,従業員883名,事務所社宅. 小学校,病院等すべて,落合の沢と社宅の一部が奥の沢の山腹にあった。
      p.24
    昭和6年には坑内の施設が続々出来上り,次第に現在の姿を形成し出した。
    先ず事務所が現在の位置に新築され,職員クラブができ,社宅の一部が奥の沢より現在の2. 3丁目へ移設された。
    日石より引継いだ頃の住宅は交通不便な落合の沢にあり,娯楽機関も不備であった。
    そのために飲酒,賭博にふける者が多く,休日前後は出役不良で大変困った。
    外勤係は毎日入坑時間前後に各戸を訪問し.個々に出役を督励し,又単身者合宿所(飯場) には飯場頭に出役の賞与を渡して依頼した。
    その後.成績の不良なものは漸次淘汰すると共に,昭和6年に現在地に転住してから居住者の心理状態も一新し出役督励方法も予約制度に改められた。
    つまり住宅が落合の沢にあった頃は生活状態は極めて不規則,不衛生で,殊に従来の風習として冠婚葬祭・年末・年始・金融方法等は主として友子交際により不合理極まる方法で行われて来た。
    昭和6年の住宅移動により共愛組合をつくり,生活改善を申合せ,これの改善が行われたのである。
    昭和7年. 山神社(上3条3丁目),病院,浴場,小公園等が新設された。
    ヤマのファンをたんのうさせる娯楽の殿堂 "互楽館" は,現病院横にあった集会所に代り,昭和8年 (現体育館) 建てられた。
      pp.25,26
    日石より引継ぎ当時は落合. 奥の沢の2ケ所に455戸の社宅があり,夫々家族に貸与し,単身者は主として飯場に収容した (美唄町附近から通勤する者も多数あった。)
    昭和6年事業所主要建物がーの沢に移転と同時に. 木造平家二間式文化住宅を新築した。
    又直営の鉱夫寄宿舎を設けて単身者を収容した。
    住宅には附属建物としての物置がなかったために各自,思い思いの材料を用いて差懸をつくり "物置代用兼冬期の雪囲い" としていたため. 社宅の外観雑然として見苦しかったので, 各戸1坪半の物置を別棟として設置した。
    又便所も各戸別とし, 水道, 大浴場を設置するなど. 改善に努力した。
    この結果従来1間式で狭隘のため夜勤者は昼間安眠出来ず. 又親類其の他来訪者に生活の全場面を曝け出す悩みを解消した。
      p.30
    職員クラブについて
    当初は落合の沢にあったが,昭和6年10月. 現在置に移転,昭和14年秋増築,模様替え,敷地坪数 450.09 坪,室数5 ,外に応接室,食堂,娯楽室,集会室を作った。
    尚,職員合宿もクラブに併置された (室数37) ,其後増改築され,現在は閉山後他に職を求めて転出した炭鉱離職者の高校生子弟の寮となって居る。
      pp.33,34
    体育設備について
    スポーツの勃興の波にのって,当所に陸上競技場が竣工したのが昭和6年である。
    工費2500円を投じて現在地に新設したのである。
    総坪数3600坪 (1周250M) "希望ケ丘グラシド" と称し,昭和9年改造し,施設を完備し. 昭
    和10年に北海道公認グラシドとして各種の競技会を行った。
    このグラシドが新設された1年おいて8年には,早くも明治神宮大会(現国体)に初めて代表選手として. 5000Mの小林,走巾跳の間所,砲丸の高田の3名を送っている。
    その頃の陸上陣は美唄だけでなく空知・北海道と陸上玉国の実蹟を示した。
    しかし戦争と同時に,この陸上競技場も練兵場となり,青年達の汗のしぼられる場となっていったのは当然である。
    しかし戦後の体育の復興と同時に三井美唄陸上は亦々陸上王国を築き. 国体選手を数多く送り出したのである。
    この競技場の一年は,6月上旬,まず三井美唄小学校の大運動会によって幕をあける。
    もっとも児童数の多かった時には3600名の児童と,それを応援する父兄とでグランドがせまく,見物席は前日の晩から泊りこみで確保する始末,それでも時々ナワ張り争いのようなものが見られた。
    この小学校運動会の後は,中学校の運動会である。
    7月上旬. ヤマ全体が一貫となった "大運動会" が行われる。
    朝早くから打上げ花火が威勢よく打上げられ,それと同時にタイコの音をとどろかせながら,応援団選手が町をねり歩きながら入場する。
    それとばかりに全山の老若男女がグランドに押しょせ,大運動会がくりひろげられるのである。
    ヤマ独得の救護体競技,留付競技等も行われた。
    この後は各種競技会,部落運動会と,希望ケ丘グランドは. 芝ふが緑の間は,にぎやかな日々を送ったのである。
    この外の運動設備は軟式野球場は昭和11年8月完成し. テニスコート.弓道,スキー場,相 撲場. 硬式球場と建設され,スポーツ玉国を誇ったのである。
      p.38
    昭和9年第3坑3番層第一斜坑開さく。
    昭和10年美唄,南美唄間にパスが開通されて,ヤマと町との連絡が一層よくなった。
    また11月に待望の上水道設置が決定, 七号川上に工事着手した。
    医寮方面もまず病院設備に重点が払われ. 9年にヤマ最初のスチームが通り. 10年にはレントゲンが設置された。