Up 桜井良三 作成: 2024-01-31
更新: 2024-01-31


美唄市「行政資料室のページ」から引用
「美唄町全圖」(三井美唄鉱山発足以前) から



    桜井農場
      『美唄市史』,1970. p.150-
     桜井農場は,桜井良三が明治30年以来経営した農場で,各年にわたり買収したため他の農場と異なり,美唄各地に散在し,その農場の一部は子息省吾の名義になっているものもあるが,昭和13年,良三の死去により省吾が継承した。
    農場は第1 農場から第6農場まであり,そのうち第6農場は小樽市朝里町にあった。
    昭和7年12月の調査によると,第1から第5農場までの総面積は,田16 ha,畑 34 ha,宅地 9.5 ha その他山林 720.5 ha,計約 780 ha,小作者数160戸と,美唄においては中村農場に次ぐ大農場であったが,山林や未開地が多く,美唄の発展に伴い,鉱業用地などに転用されたものも少なくない。
    〈第2農場〉
     落合町から盤の沢町にまたがる約40haの畑地を有した農場である。 一時,助川貞次郎から融資を受け,助川農場と改称したこともあった。 この農場は昭和15・16年ころ,三菱美唄炭砿の事業拡張に伴い一部を売却し,その後三井鉱山新美唄鉱の拡張で残余を売却した。
    く第3農場〉
     我路町から東美唄町宮の下にまたがる約130 ha の未開地で,大正2年,飯田美唄炭鉱の開鉱により70 ha を鉱業用地として寄贈し,また美唄鉄道の開通に伴い我路市街が形成され宅地化した。


    美唄鉄道,桜井商会
      『美唄市史』. pp.560-563
    美唄鉄道の計画
     鉄道の固有化以前の鉄道輸送は,北海道炭砿鉄道会社の独占下にあり,他の沿線石炭業者の石炭輸送については,まったく顧みられなかった。
     このような状態に対処して,明治38 年,石狩炭田地帯の石炭業者が会合し,大規模な運炭鉄道を計画した。
    その経路はおよそ次のようであった。
      石狩河港 一 (石狩川右岸) 一 浦臼村 一 (石狩川横断)
       一 中村農場 一 美唄 ┬ 美唄炭山
                   └ 奈井江 ┬ 奈井江炭山
                         └ 空知川沿岸炭鉱
     美唄炭山を大規模に開発しようと計画していた石狩石炭株式会社は,この計画を継承し,沼貝駅 (現在の美唄炭山駅) から美唄駅を経由し,月形から石狩港を結ぶ全長198 kmに及ぶ路線の申請のかたわら,アメリカに蒸気機関車を発注した。
     この計画は,その後の調査の結果,石狩河港の修港が不可能という結論と明治39年10月の鉄道固有化により石炭運送の懸念もなくなったため変更され,路線を美唄一沼貝駅間とし,明治39年10月から美唄駅構外で専用鉄道敷設工事を開始した。
    明治42年,石狩石炭株式会社と黒柳金二郎との間に鉱区に関する係争問題が起こり,企業および敷設工事は途中で中止された。
    この事件は石狩石炭の敗訴となったが,明治45年4月,石狩石炭は敷設工事の再出願を行なった。
     石狩石炭の再出願を知った飯田延太郎は鉄道を石狩石炭に制せられるのをきらい,自ら敷設願を提出した。
    また,鉱区の所在地に農場を有する桜井良三は,自己の土地の発展と飯田の援護の意味もあって,大正元年12月,地元有志の賛同を得て同様の敷設願を提出したため,三者競願の形となった。
     鉄道院としては一般公共の貨物輸送を目的とした,桜井ほか8 名の請願を最有力としていたが,石狩石炭がすでに40余万円の巨費を投入している点とにわかに軽便鉄道として敷設することに変更したため,飯田,桜井両者も撤回し,ここに石狩石炭は敷設権を獲得し,大正3年3月,工事を再開した。


      『美唄百年史』.pp.473-.478
    石狩石炭株式会社による鉄道建設
     鉄道固有法が公布された明治39 (1906) 年に設立された石狩石炭株式会社 (社長浅野総一郎) が、美唄炭田の本格的開発をめざし、最初に専用鉄道の建設工事に着手したのは翌 40 (1907) 年6月のことであった。
    美唄川上流域一帯の地主桜井良三から美唄川ぞいの土地70町歩の譲渡を受け、土工事も順調に進んで翌41(1908)年9月には四カ所の橋梁工事に入り、軌道敷設用資材も続々入荷していた。
    ところが肝心の鉱区権問題で前の権利所有者である黒柳金二郎との間に係争が起こり、およそ40万円を投入した鉄道工事も同年11月をもって中断されたのであった。
    すでにレールを敷くばかりになっていたのである (第二章第四節参照)。
     明治44 (1911) 年2月、浅野はけつきょく行政裁判で黒柳に敗れて主力鉱区を失ったが、それでもまだ周辺に11鉱区をもっていたこともあり、翌45 (1912) 年4月、再度の専用鉄道敷設願を提出した。
    これに対して、黒柳の鉱区を継承した飯田延太郎もまた飯田美唄炭鉱開鉱のために同年専用鉄道敷設願を提出して、両者の競願となった。
     一方鉄道用地を浅野に譲渡していた桜井は、45 (1912) 年5月8日、弁護士を通じ浅野に対して70町歩の土地返還交渉を開始する一方、3カ月後の大正元 (1912) 年8月1日には飯田延太郎との間に、もし返還されたときは飯田に対して無償譲渡する趣旨の覚書を取りかわす。
    もちろん請負契約その他の条件つきである。
    そのうえで同年12月22日、桜井は政財界および地元関係者9人連名による「美唄軽便鉄道敷設認可願」を総理大臣桂太郎に提出した。
    軽便鉄道とは、明治43 (1910) 年に施行された「軽便鉄道法」にもとづく私設の旅客貨物鉄道のことで、軌道幅や施設は国鉄と何ら変わらない。
     桜井らの認可願書等によれば、会社の資本金は30万円、鉄道建設費用もまた30万円であったが、願人のなかには飯田延太郎配下の者 (工藤自助) まで混じるといったものであった。
    桜井にしてみれば、軽便鉄道法ができたいま、浅野・飯田のどちらに認可されても、他からの介入の余地がない専用鉄道であっては困るというのが恐らく本音であったと思われる。
     大正2 (1913) 年9月17日になって浅野は、けつきょく専用鉄道にかえて「美唄軽便鉄道敷設免許御願」を改めて提出し、1カ月後の10月14日、総理大臣山本権兵衛名による免許状が石狩石炭株式会社に下付された。
    続いて「本鉄道ハ大正三年三月三十一日迄ニ工事ニ着手シ大正三年八月三十一日迄ニ竣工スへシ」との許可がおりたのは、大正3年2月20日のことであった (のち竣工期限は同年10月31日までに延長された)。
    工事と開通
     さて工事は、大正3 (1914) 年3月19日、5年間以上放置されていた路線のいわば復旧工事から始まった。
     当時の『北海タイムス』によれば、美唄川ぞいの曲線部や斜面の石垣などがすでに各所で決壊していたという。
    それでも天候にも恵まれて工事は順調に進み、7月半ばには盤ノ沢近くまで軌道が伸びて資材運搬用の列車が入るようになった。
    国鉄美唄停車場にはアメリカ製の7010型機関車がすでに入っていた。
     8月下旬になると鉄道のほぽ最終地点まで資材用列車が入り、停車場予定地の一つである桜井農場の一部 (我路停車場付近) には70余戸の市街地が形成され、最終駅 (沼貝駅) に近い飯田美唄炭鉱坑口近くには、すでに積み出しを持つ3万トンの石炭が堆積していた。
    『北海タイムス』によれば、桜井商会では600人の土工夫・雑夫・杣夫を使い、飯田炭鉱の800間の輪車路開削と坑木・建築用材供給作業のさなかで、岡田春夫 (先代) がわらじばきで陣頭指揮をとっていたという。
     鉄道工事を一手に請負ったのは札幌の堀内組 (堀内廉一) であった。
    最初の工事からの引き続きであったかどうかは不明だが、土工事を実際にやったのはその配下や下請けのタコ部屋である (桜井商会は鉄道建設では木材供給が中心であったらしい)。 ‥‥‥


『美唄市百年史』, p.363 から引用:
桜井良三と石狩石炭の契約書


同上, p.365 から引用:
桜井良三と飯田延太郎の契約書



『美唄市史』 p.443 から引用
1914年頃の飯田炭礦の略図



『美唄市百年史』 p.685 から引用
桜井家住宅 (1923)