Up 土木請負業者 作成: 2024-01-14
更新: 2024-01-25


      『美唄市百年史』,pp.458,459
    『沼貝村史」は、「請負業者と称するもの村内に三名の従業者あり、‥‥‥ 何れも規模小にして(ただ)に村内の需要を充たすのみならず、少しく高価なる請負其他の工事に至りては他村の侵入する所となり、其収益の大半は之等の為め吸収せらる々の現状を呈せんとす」と述べているが、飯田美唄炭鉱の開鉱や、美唄鉄道線の開通にともなう工事の大半はこうした大手外部業者によって請負われ、その配下の者や流入下請け業者によって施工された。‥‥‥
     やがて三菱の進出にともない事業が拡大するにつれて、大手業者の配下の者が独立したり炭鉱地域に根をおろす下請け業者が出はじめた。
    ‥‥‥ 8 (1919) 年1月1日付げ『北海タイムス』には、「美唄炭坑土木建築請負組合員」として、伊東鶴吉、石井作太郎、神田仁太郎、高橋清助、矢館福太郎、安藤熊吉、浅野国治の七人が広告を出している。
     右のうち伊東・浅野の両人は、3年当時、小樽の請負業者山本忠三郎の、安藤は安藤庄吾のそれぞれ配下として入村し、そのほかはいずれも大手の下請けまたは孫請けだった者である。
    高橋は茶志内兵村出身で我路市街地に拠点をもっていた。
    同市街地業者としては岡田春夫がいたが、大3三年には、同じく土建業も兼ねた桜井商会の一員に加わり、その後独立して事務所を開いたのである。
     そのほか、飯田炭鉱の開鉱とともに入山して指定飯場を開いていた林吉太郎のほか、3年から樋口豊太郎・西口隆義、4年から高田佐四郎・沢田善三郎、7年には園部熊吉らがそれぞれ三菱関係の請負業者としてその後も営業しており、実際にはその下で仕事を請負って飯場を経営する者もあったからもっと多かったものと思われる。
    樋口は運送業を、西口は質屋と金貸業をそれぞれ兼業していた。
     少数の飯場を除けば、当時の土建飯場のほとんどはいわゆるタコ部屋であった。
    右のうち管理人と称する監督をおいて直接タコ部屋を経営する例もあったが、多くはさらに零細な業者に下請けさせたからその実態をとらえることは困難である。
     こうした炭鉱を基盤とする請負業者は、大正7年に一ノ沢に入った平野豊吉を始めとして、沼貝炭鉱や光珠炭鉱の開鉱にともない、さらに地域を拡大して人員も増加し、大正11 (1922) 年の村役場の統計でも36人にのぼった。
    光珠炭鉱では、平野が坑外運搬関係を、土木工事の多くは大井昌義、選炭付属作業は宮地市松、建築工事は熊谷善次郎らが主に請負い、その後も定住してやがて三井の進出を迎えている。
    のちの三井美唄炭鉱互楽館は熊谷が施工した。
     その三井美唄炭鉱になってから現在の南美唄町に拠点をさだめ、三井の土木工事を一手に請負って大きくなった成島組 (土屋己之助) は、大正13年当時はまだ倶知安を本拠地として道内各地に事業所をもち、沼貝村でももっぱらかんがい溝工事を請負っていたが、大手のタコ部屋経営者としてすでに名が知られていた。
       美唄市街地の業者としては、桜井商会は別として坂東万吉、菅野忠右衛門のほか、大正9年開業の長縄国三郎らがあったが、いずれも木材販売などの兼業もしているから建築の請負が主体であったと思われる。

同上. p.459から引用
菅野忠右衛門による桜井家住宅離れ建築工事 (1918年)


      『美唄市百年史』,p.413
     土工部屋の経営者はいっぱんに土木建築業や、土木請負業などを名のり、なかには信用部屋と呼ばれる監禁をともなわない形態のものもあったが、信用部屋とタコ部屋の両方を経営する者もあり、その実態を正確につかむことは難しい。‥‥‥
     のちに坑内労働にも使役するようになった炭鉱地域では、事業の拡大に合わせた坑道掘削や、住宅・施設用地の造成、建物の建造などが絶えないから、炭鉱に寄生するタコ部屋経営者も絶えることがなく,第二次世界大戦後まで続いた。 ‥‥‥

      『美唄市百年史』, pp.413,414
     三菱美唄炭鉱の拠点である美唄川上流域には、北二ノ沢から七ノ沢にかけて幾つものタコ部屋があり、通称「タコ部屋道路」と呼ばれた (加藤三之助談・昭和49年)。
    大正6 (1917) 年に25歳で三菱美唄鉱に入山し、大正13 (1924) 年まで (三菱の) 北一ノ沢の長屋で過ごした佐藤雄三は次のように語っている。
        入山したころ、大きいのでは神田組があって、ちょうど炭山駅と(北)二ノ沢間の鉄道工事をやっていた。
    神田は美唄鉄道工事のとき入ってそのまま居ついたと聞いている。
    赤い腰巻きに棒頭がついてひどいものだった。‥‥‥
     大正十三年にいまの三井美唄に移ったが、ここでは成島組が有名で当時はかんがいこうをやっていた。
    これもひどかった。
    足に鉄ぐさりをしているのを一度だけ見たことがある。
    三井になってからますます大きくなった。‥‥‥

『美唄市百年史』. p.413 から引用
神田組事務所 (1922年)


同上. p.459から引用
成島組事務所 (1928年)