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『美唄市史』,1970. pp.455-460
日華事変の拡大は,多数の熟練労働者の応召者を出す一方,労働力は軍需工場の労務者優先主義のため,吸収されていったので,労働力の不足をきたし,生産能率の低下をもたらした。
‥‥‥
昭和13年4月,「国家総動員令」が公布され,これに基づき,「学校卒業者使用制限令」(13.8),「工場事業場技能者養成法」(14. 3),「従業員雇入制限令」,「(同)青少年雇入制限令」(15.12),「従業員移動防止令」(15.11) などあいついで発動された。
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このように強力な行政措置を講じたのにもかかわらず,労働力の不足は,依然
として解決できなかった。
この打開策が,朝鮮人労働者の移入であった。
‥‥‥
昭和14年にはいると,労働力の不足が生産を大きく阻害するようになったため,10月には三菱美唄炭砿 659名,三井美唄炭鉱 197名,翌年,三菱1,121名,三井590名とおおぜいの朝鮮人労働者が入山し,美唄のマチは,にわかに朝鮮服が目だつようになった。
‥‥‥
太平洋戦争のぼっ発により,高度国防生産力の支柱たる石炭の増産はいよいよ急を告げ,労働力はもはや質的向上を顧みる余裕はなくなり,量的動員時代へと移行していった。
‥‥‥
昭和19年2月 ‥‥‥ すでにこのころ,国内の労働力はもとより朝鮮人労働力もようやく底をつき,華人俘虜の使用のやむなきにいたった。
7月になって,華人が三菱と三井のヤマにはいってきた。
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三井美唄炭鉱は事務所の奥の谷間に急造の宿舎を建て,総数約1,200名を収容した。
待遇は人間なみに扱われなかった。
特に,食事は量も少なく,栄養も満足にとれない状態であったので,ほとんどが骸骨のようにやせて,体力はすでに限界を示し,十分な作業はできなかった。
この三井美唄炭鉱華人寮で発生した悪質な伝染病は,町民を恐怖のどん底におとしいれ,
一時は本町と三井美唄の交通がしゃ断され騒然たるものがあった。
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華人の入山から数か月遅れて函館その他に分駐していた白人俘虜が,労働者不足の補充に来山した。
美唄では三井美唄に配属になり,南側の山麓に板固いした宿舎を急造し,約1,000名を収容した。
そして,三井美唄は白人俘虜の収容本部となり,総指揮官に古賀大佐が着任した。
かれらは,坑内外の比較的軽い労働に従事したといわれる。
‥‥‥
昭和19年10月,朝鮮人労働者の中でも優秀な先山が一時帰国し,さらに熟練した勤労報国隊の満期帰還により,出炭は急激に減少していった。
すでに生産に欠くべからざる火薬等も不足し,物資不足,食糧不足等もいよいよ深刻化し,ヤマの生活不安はつのるばかりであった。
‥‥‥
炭鉱は,戦時中増産至上主義により出炭が強行されたために,坑内が荒廃していった。
他方,炭鉱労働者も終戦時には坑内労働者の約半数までが朝鮮人やその他の外国人労働者によって占められる状態であった。
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同上. p.674
美唄2炭鉱坑内外別国籍別労働者数 (各年6月現在)
区分 |
1944年 |
1945年 |
日本人 |
朝鮮人 |
日本人 |
朝鮮人 |
三菱美唄砿 |
坑内 |
2,459 |
2,216 |
2,130 |
2,538 |
坑外 |
2,092 |
93 |
2,311 |
279 |
計 |
4,551 |
2,309 |
4,441 |
2,817 |
三井美唄鉱 |
坑内 |
1,226 |
1,521 |
1,294 |
1,507 |
坑外 |
896 |
126 |
1,004 |
134 |
計 |
2,112 |
1,647 |
2,298 |
1,641 |
(『北海道炭鉱統計資料集成』から)
朝鮮人労働者
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同上. pp.673-675
朝鮮は,明治43年,日本に併合されて以来昭和20 年の終戦まで,日本の統治下にあったため,多くの人たちが日本本土に移住して生活するようになった。
日華事変が起こり,次いで太平洋戦争がし烈化するにつれて,国内の労働力が不足し,炭鉱においても当然この影響を受けた。このため農漁村の余った労働力を炭鉱に振り向けたりしたが,問題解決にはならなかった。
そこで,その打開策として,兵役の義務がなかった朝鮮人の本土移入が行なわれ,戦争の推移にしたがって,次の方法がとられた。
昭和14年から16年までは,会社専属の募集員を朝鮮の現地に派遣して直接募集を行ない,昭和17 年からは,日本政府の指示で設置された朝鮮総督府内の労務協会が主体となって,官あっ旋の形で割当て募集が行なわれた。
しかし,労働力の充足はいぜんとして目標に達しなかったため,政府は昭和19 年9 月,徴用制を施行して,強制的に日本本土へ移送するようになった。
美唄でも三菱美唄砿や,三井美唄鉱などへ送り込まれ,日本人従業員指導の下で就労した。
終戦の昭和20 年には,三菱美唄砿で日本人坑内労務者2,130 名に対して,朝鮮人労務者は2,538 名に及び,三井美唄鉱でも朝鮮人労務者のほうが200 名も上回っていた。
これら朝鮮人労務者の待遇は,以前から炭鉱に住みつき妻帯している者は,直轄の日本人労務者と同様であって,その数も多かった。
徴用によって来た者は,寄宿舎生活をして,労働に従事していた。
なかには「たこ部屋」と称する下請けの組夫として重労働が課せられるなど酷使された者もいた。
[ 土木部屋 (「たこ部屋」) ]
坑内作業については,五人の槌組中二人は日本人,三人は朝鮮人であった。
かれらの仕事は最初のうちは坑内労働の不慣れから能率が悪かった。
しかし,日がたつにつれ日本人先山とも人間的に親しくなり,技術も向上してくると能率もしだいに上がった。
寄宿舎にいる独身者は,行動が比較的自由であった。
しかし,徴用の労働者は拘束された状態の下で、強制労働がしいられ,中にはその酷使に耐えかねて逃走した者もいたといわれている。
いちおう募集契約期間を終えた者は,自由を保障されていたが,使用者側では労働力の減少を防止するため,優遇措置を講じてその定着に努めた。
終戦後は,大半の者が故国にもどったが,現在もなお日本に定住している人たちも少なくない。
こうした朝鮮人労働者が,終戦までわが国の生産増強のため,その第一線で就労した業績は特筆されるべきものがある。
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