Up 炭住の出現 作成: 2024-01-25
更新: 2024-02-25


      『美唄市史』p.817,
    昭和20年三井美唄炭鉱の炭住計画により, 東明地区に約1,000戸の住宅が3か年計画で建てられ [た。]

      『美唄市百年史』, p.1029
    ‥‥‥ [東明に] 23 (1948) 年から新築住宅が軒を連ねはじめた三井新美唄鉱の炭住街 ‥‥‥
     新美唄炭鉱の炭住はもともと現盤の沢町に集中していたが、近くに三菱美唄鉱の発電所があり、さらに戦時中に開かれた滝ノ沢坑の本格的採掘にともない、狭い谷合いはすでに飽和状態となっていたため、三井新美唄鉱では新築先を東明および落合町地区に求めていたのである。

『足跡 : 三井美唄35年史』, 三井美唄鉱業所臨時事務所, 1964.5 から引用:
二坑配給所  
手前の道は,左方向が美唄炭山へ


二坑職員クラブ (栗林荘)


二坑職員合宿 (東明か盤の沢か不明)



1962年の東明の航空写真 国土地理院:地図・空中写真閲覧サービス から引用) の上に,
1955年頃にあった施設等を記してみる:



      『美唄市百年史』, pp.1028--1030
    [三菱美唄炭鉱では] 外国人労働者などの退山と戦後の増産体制にともなって、新しい労働力を受け入れるためにとられた対策の一つとして、大規模な炭鉱住宅の新・改築が行われた。
    三菱美唄炭鉱には22 (1947) 年9月現在で、3553戸の炭住と15の寮・アパートがあったが,同年秋から23年にかけで、炭住800戸、四階建ての鉄筋アパート二棟などのほか白樺・親和・平和・思静・三和などと名付けた木造アパートを建て、一部に二戸建て・三部屋式に内便所のついた住宅がみられるようになった。
    さらに古い長屋の改造も大がかりに行われ、大正時代からの六・三長屋が、六・六や六・八長屋に改造されて出窓や小さな物置が付くようになった。
    ‥‥‥ 三菱美唄鉱の谷ぞいにその後も鉄筋アパートが次々と建てられていったのは、新築スペースがすでに限界にあり、古い長屋の改造によって場所がさらに不足したからでもある。
    丘陵地帯からはみ出した住宅群は美唄川を下って現在の落合町一帯に広がり、さらに、現東明町の‥‥‥三井新美唄鉱の炭住街を飛び越えて、その南端まで進出した。
    畑作中心ののどかな農村地域であった両地区は、たちまち三菱・三井が入りまじる大炭住街に変容し、23年には美唄鉄道線に東明駅が出現、かつて静かな農村時代には東明と書いて「しののめ」と呼んでいた一帯は、「とうめい」と呼ばれるようになった。