Up ウイルスの計量は,いまの科学にはできないこと 作成: 2022-02-06
更新: 2022-02-06


    ひとは,「専門家」の言説を受け取るとき,「専門家はウイルスのことをわかって話している」と思っている。
    しかし「専門家」は言うに及ばず,いまの科学がウイルスについてわかっていることは,ほとんど無いに等しい。
    なにせウイルスは,小さ過ぎるのだ。

    有無も多寡も,わからない。

    陽性検査は,警察の検問のアルコール検査みたいにできれば簡単だが,これはできない。
    《呼気を採取して,ウイルスの有無・多寡を調べる》を考えることは,いまの科学には百年早いのである。


    こう言うと,あなたは定めしつぎのようにリアクションしてくるだろう:
     「 じゃあ,いまやっている陽性検査は何なんだ──あれはウイルスの有無・多寡を調べているんじゃないのか?

    先ず,陽性検査はウイルスの多寡を知ることはできない。
    つぎに,陽性検査は採取物の中にウイルスを捜しているのではない。
    ──強調するが,ウイルスは人が捜して見つかるものではない。

    何をやっているかというと,ウイルスの DNA の一部を複製で増やす。
    (新型コロナウイルスは核酸が RNA なので,逆転写で DNA にしてからこれをする。)
    複製の回数は,もしその一部が存在していれば,理論上検知にひっかかる量にまで増幅する回数である。
    「PCR検査」の "PCR (Polymerase Chain Reaction)" は,この複製繰り返し技術のことを謂う。

    そして出て来たものを,検査する。
    陽性反応が出たが再度検査すると陰性だった」が言われるのを聞くが,こうなるのは,検査は「陰性の閾値を突破した・しなかった」で陽性・陰性を決めていることになるからである。
    0か1で決まるのではない。

    「0か1で決まるのではない」とはどういうことか?
    「感染はもともと0か1ではない──感染は程度問題」ということである。


    いまの科学がウイルスのリアルな存在について言えることは,PCR検査による「有無」までである。
    「そこにはどのくらい有る」は言えない。
    「どこに有る」「どのように有る」になると,まったくわからない。

    ひとは,「専門家」の言うことを真に受けて,マスクの装着,手のアルコール消毒に努める。
    客商売は,アクリル板を立て,テーブルや椅子の雑巾がけに努める。

    そしてこれを,正義の行いと定めていく。


    正義の者たちは,正義がまだ行き届いていないところを捜し,それを挙げることを,己の誇りとする。
    こうして,奇っ怪な正義──噴飯物の正義──が増えるばかりとなる。

    最初の緊急事態宣言の頃を思い出すべし。
    みんなすっかり舞い上がってしまい,正義の行動に爆走した。
    学校は──いつものことだとはいえ──とりわけ見事であった。
    NHK は,教壇と生徒の間に透明幕を垂らす教員や,生徒が触った本をページの間まで拭き取る教員の映像を流し,その行動を持ち上げた。


    実際は,ウイルスはひとの正義の行為をやすやすとすり抜けている。
    そしてひとは,この先も新手の奇っ怪を繰り出していくことになる。
    ──ちなみに昨日の NHK ニュースは,「2歳児にマスク」「走り幅跳びのオンライン授業」を持ち上げていた。