政府は,「ウィズコロナ」を制定してしまうことになった。
国は,「ウィズコロナ」全体主義体制になった。
この全体主義は,どのようにして終わるか。
「ウィズコロナ」全体主義の終わり方は,「終結」の形にはならない。
終結は,「終結宣言」が要る。
終結宣言すれば,「馬鹿な戦争をやったもんだ」になる。
そして「戦犯」を出してしまう。
「ウィズコロナ」全体主義の終わり方は,「うやむや」である。
「うやむや」には,2タイプがある。
フェイドアウトと既成事実化である。
いまマスコミは,形勢の不利がわかってきて,なし崩し的に新型コロナの扱いを小さくしてきている。
これが,「フェイドアウト」である。
「ソーシャルディスタンス」も,「フェイドアウト」方式で終息させていくものである。
距離の連続性を用いて,目立たぬよう徐々に縮めていくことができる。
したがってこれを観察しようとするときは,「定点観測」が方法になる。
つぎなどは,定点観測が最もしやすい観察対象である:
NHK午後7時のニュースのオープニング
これに対し,公共施設等で実施されている「マスク着用義務」は,「フェイドアウト」の形が立たない。
こういうところは,「マスク着用義務」が既成事実化する懼れがある。
『裸の王様』の話が,「王様は裸だ」と声を上げる子どもが登場しない形──「国民はこぞって王様のお召し物を褒めそやした,めでたしめでたし」──になるというわけである。
実際,この方式は日本人の性分に合っている。
日本の公園の池は,フェンスが巡らされている。
これは他の国には無いことである。
日本人は,僅かの確率の事件に備えていることを美徳とするのである。
──己の<意気地無し>を<美徳>にひっくり返すのが,日本人の国民性である。
例えば公共図書館などは,「ウイルス感染症全般に備える」として,つぎの措置が既成事実になる懼れがある:
- 入口での消毒
- 感染者追跡を可能にする個人情報の記入
- 館内マスク着用
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