Up 「馬鹿な戦争」のしくみ 作成: 2020-05-30
更新: 2020-06-09


      司馬遼太郎 (1998), pp.4-6
     人々はたくさん死にました。
     いくら考えても、つまり、町内の饅頭屋のおじさんとか、ラジオ屋のおじさんなら決してやらないことですね。ちゃんとした感覚があれば、お店の規模を考えるものです。
     ところが、こんな馬鹿なことを国家の規模でやった。軍人を含めた官僚が戦争をしたのですが、いったい大正から昭和までの間に、愛国心のあった人間は、官僚や軍人の中にどれだけいたのでしょうか。
     むろん戦場で死ぬことは 「愛国的」 であります。しかし、戦場で潔く死ぬことだけが、愛国心を発揮することではないのです。四捨五入して言っておりまして、あるいは誤差を恐れずに言っています。
     私自身の経験を言いますと、私は戦闘に参加したことはありませんが、どういう状況になっても恥かしいことはしなかっただろうと思います。周辺の人間数人、あるいは数十人の人間を前にして、みっともないことをしたくないという気持ちですね。それがあれば、人間は毅然とすることが出来ると思います。それは愛国の感情とは違う問題になります。
     むろん、愛国心はナショナリズムとも違います。ナショナリズムはお国自慢であり、村自慢であり、家自慢であり、親戚自慢であり、自分自慢です。
     これは、人間の感情としてあまり上等な感情ではありません。
     愛国心、あるいは愛国者(パトリオット)とは、もっと高い次元のものだと思うのです。そういう人が、はたして官僚たちの中にいたのか、非常に疑問であります。
     私は、ノモハン事件のことを調べてみたかったのです。ずいぶんと調べました。資料も集めました。人にも会いました。会いましたけれども、一行も書いたことがないのです。それを書こうと思っていながら、いまだに書いたことがなくて、ついに書かずに終るのではないか、そういう感じがします。
     日本という国の森に、大正末年、昭和元年ぐらいから敗戦まで、魔法使いが杖をポンとたたいたのではないでしょうか。その森全体を魔法の森にしてしまった。発想された政策、戦略、あるいは国内の締め付け、これらは全部変な、いびつなものでした。
     この魔法は何処から来たのでしょうか。魔法の森からノモハンが現れ、中国侵略も現れ、太平洋戦争も現れた。世界中の国々を相手に戦争をすることになりました。
     たとえば、戦国時代の織田信長 (1534〜82) だったら考えもしないことですね。信長にはちゃんとしたリアリズムがあります。自分でつくった国を大切にします。不利益になることはしません。
     国というものを博打場の賭けの対象にする人々がいました。そういう滑稽な意味での勇ましい人間ほど、愛国者を気取っていた。そういうことがパターンになっていたのではないか。魔法の森の、魔法使いに魔法をかけられてしまった人々の心理だったのではないか。
     私は長年、この魔法の森の謎をとく鍵をつくりたいと考えてきました。
     たとえば、これをマルクス主義に当てはめれば、パッと一言でこれだということになるのかも知れませんが、それでは魔法の森の謎を解くことは出来ません。
     手づくりの鍵で、この魔法の森を開けてみたいと思ってきたのです。どうも手づくりの鍵は四十年たっても出来たのか、出来ていないのか ---- その元気があるのか、ないのか ---- とにかくその鍵を合わせて、ノモハンについて書きたかったのですけれども。
     あんな馬鹿な戦争をやった人間が、不思議でならないのです。


    「不思議でならない」が端緒であるのはよいが,いつまでもこれが続いているのは問題である。
    いつまでも「不思議でならない」となるのは,つぎの認識がそもそも間違っているからである:
    1. 軍人を含めた官僚が,戦争をした。
      民衆は,魔法をかけられた側。
    2. みっともないことをしたくないという気持ちがあれば、人間は毅然とすることが出来る。

    事実は,こうである:
    1. 好戦的な世論喚起を意図して,誇張とデマで粉飾された「敵の卑劣」の情報が流される。
    2. 国民はこれに洗脳されて,好戦気分になる。──「町内の饅頭屋のおじさんとかラジオ屋のおじさん」が,好戦的になる。
    3. 軍人・官僚は,好戦的世論に押される格好になる。
      軍人・官僚のうちに,主戦論を唱える者がいる。主戦論を唱えるのはアタマが悪いからだが,こんなときは彼らの声が逆らえないものになる。
      こうして軍人・官僚は「大勢(たいせい)には譲るしかない」になっていき,ついに「開戦」宣言となる。
      そして一旦戦争を始めたら,もう引っ込みのつかない者になる。
    4. 国民は,戦争への忠誠を競い合うようになる。
      そして,「非国民」の摘発に血道を上げるようになる。
    5. 戦時体制のなかで,メディアは国民の洗脳を続ける。
      国民は,「戦争」の意味に思考停止して,「戦争」を支える。
    6. 《みっともないことをしたくないという気持ちがある》は,《毅然とすることが出来る》にはならない。
      即ち,毅然としないことが己の生きていける条件のときは,ひとはみっともないことをしたくないという気持ちとは裏腹に行動する。


    引用文献
    • 司馬遼太郎 (1998) :『昭和という国家』, 日本放送出版協会 (NHK出版), 1998.