Up 反戦は, 反正義 作成: 2020-04-17
更新: 2020-04-17


    「反戦」は,左翼的な進歩主義者の本領ようなイメージがある。
    このイメージは間違いである。。
    太平洋戦争でも,左翼的進歩主義者は雪崩を打って軍国主義者になった。

    実際,左翼的進歩主義は,むしろ戦争と相性がよいのである。
    左翼的進歩主義は,正義を立てる。
    そして,戦争はいつも「正義の戦い」である。

    この度も,国会で「正義の戦い」を声高に唱えているのは,野党の方である。
    そこで,反戦者の資質とは何かを,改めて考えることになる。


    反戦者は,《「正義の戦い」の正義と()りが合わないので,自ずと反戦になる》というものである。
    この資質は,《世の中の言語ゲームと反りが合わない》に一般化される。
    例えば,「故人は今頃天国で‥‥」とか「黙祷」のような言語ゲームができない者は,反戦者の資質がある。

    《世の中の言語ゲームと反りが合わない》は,カミュの『異邦人』の主題である。
    そしてカミュの『反抗的人間』は,「異邦人」を「反抗的人間」に昇格させる論考である。
    この「反抗的人間」は,「反戦的人間」を含意するように仕組まれている。
    カミュの「反抗」の概念は全体主義に対する反抗であり,そして戦争は「正義の戦い」であって全体主義だからである。
    カミュの『ペスト』の主題は,この「反戦」である。
    ひとはたいてい誤読してしまうが,『ペスト』の主人公はペストと戦っているのではない。 ──「ペストとの戦い」という全体主義に反抗しているのである。

    さてこのカミュだが,「反抗」の構えをひとに負わせようとするところで,間違っている。
    「反抗」は,ひとには負えない構えである。
    そしてこの意味で,「反戦」はひとには負えない構えである。


    「反抗」は,構えてするものではない。
    「反抗」は,自ずとそうなってしまうものである。
    そうなるかならぬかは,契機次第である。

    この辺の機微は,仏教が「(えにし)」のことばで主題化しているものである。
    「縁」なんかで説明されたら,ごまかされた気分になるし,また実際ごまかしているわけだが,事実は確かにそんなもんである。