Up | 「第○波」いたちごっこ : 要旨 | 作成: 2021-04-25 更新: 2021-04-25 |
政治家・マスコミを筆頭にして,ひとはこのメカニズムをきちんと考えることができない。 「このメカニズムをきちんと考える」という考え方をそもそも持たないからである。 「第○波」は,「陽性検査数第○波」である。 陽性者は,既に人口の一定割合で存在するものになっている。 そこで, 「陽性検査数第○波」は「陽性者検出数第○波」を導くことになる。 「陽性者検出数第○波」は, 「陽性検査数第○波」のインプリケーションである。 しかし医療利権やマスコミは,「陽性検査数第○波」を隠蔽して「陽性者検出数第○波」だけを取り上げ,これを「感染拡大第○波」とぶち上げる。 政治家は,この言に乗せられる。 そして大衆は,いともあっけなく,彼らに洗脳されてしまう。 大衆が簡単に洗脳されてしまうのは,臆病だからである。 最初に「新型コロナ=パンデミック」「対策しなければ40万人が死ぬ」とぶち上げられたことで,すっかりビビってしまった。 「パンデミック」のことばを聞かされると,ひとは「天然痘」とか「エボラ出血熱」を思い浮かべる。 即ち,「感染者ゼロにしなければならない (そうでないうちは安心できない) 感染症」を思うのである。 東京都の新型コロナ感染統計が示すところでは,陽性検査数に対する陽性者検出数の比 (「陽性率」) が,平均して「5%を中心に上下」となっている ( 東京都の陽性検査数推移 (2021年4月13日まで))。 これは,「東京都民全員にいま陽性検査をしたら,少なくとも1% (10万人) は陽性になる」を示唆する。 「感染者数」は,100人単位の数で騒ぐような話ではない。 「人口の1%」が感染している呼吸器系感染症は,何と呼ぶべきか。 「ただの風邪」である。 新型コロナは, 「パンデミック」ではない。 新型コロナは, 「ただの風邪」である。 新型コロナは, 「感染者ゼロ」になって終わるのではない。 新型コロナは, 「感染者がごろごろいる」を当たり前として,うっちゃっておくものである。 ところでひとは,結果を原因と取り違えるのを常としている。 ひとは,陽性検査数の波のことを聞かされても,これを陽性者検出数の波に連動するものと思ってしまう。 事実は逆である。 陽性検査数の波に陽性者検出数の波が連動するのである。 では,陽性検査数の波はどうして起こるのか。 ここで押さえるべきは,陽性検査数は
当たり前のこととして,対象にしている場所の人の流れが増えれば陽性検査数が増え,減れば陽性検査数が減る。 対象に定める場所は,濃厚接触者追跡が ここが要点である。 「密」を言い出せば,その極みになるのは都会の通勤電車だが,ここは触ってはならないところであり (経済を止めることになるから),かつ物理的にも濃厚接触者追跡を実施できる場所ではない。 大人数を収容する大規模施設も,追跡を実施できる場所ではない。──追跡を実施できる場所にするときは,その前に収容人数の制限をかけることになる。 検査機関が点数を稼げる場所は,(1) 物事の大事のプライオリティと (2) 濃厚接触者追跡の物理的限界の理由から,だいたい限られてくるのである。 実際,客商売の業種がいつもやり玉にあげられる,となるわけである。
COCOA をもし本当に機能させたら,それは爆発的に膨張する<濃厚接触ネットワーク>を表してくる。 そのスケールは,検査機関なんかには,はなから手のつけられないものである。 そのスケールは,新型コロナに対する行政の認識・対策を嘲笑うものである。 これが,COCOA が放棄されることになる本当の理由である。 点数を稼いでいる場所が減ることは検査数が減ることであり,点数を稼いでいる場所が増えることは検査数が増えることである。 そこで,つぎのようになる:
緊急事態宣言を解除すると,その場所への人の流れが戻るので,増える。 検査数が減ることは陽性者検出数が減ることであり,検査数が増えることは陽性者検出数が増えることである。 そこで,つぎのようになる:
緊急事態宣言を解除すると,増える。 医療利権・マスコミは,緊急事態宣言解除後の陽性者検出数の増加を「リバウンド」とぶち上げ,危機感を煽る。 しかし陽性者数は,いまの東京都だったら「だいたい100人に1人──10万人くらい」というふうに,ほぼ一定と見るものである。 「危機」とは,医療機関の不都合のことである。 馬鹿な法律 (「特措法」) をつくったおかげで,病院と行政は「病床逼迫」のすったもんだになる。 医療利権・マスコミ・政治──引っ込みのつかない者たち──は,つぎの雰囲気を醸すのに必死となる:
ひとは,「第○波」「緊急事態宣言」のトリックがわかるようになるだろうか。 そうはならない。 馬鹿な戦争は,泥沼化しうやむやになって終わるというものである。 ひとは最後まで,馬鹿な戦争の馬鹿がわからないままを続けることになる。 人間とは,馬鹿な戦争に対しては,これの全体主義に洗脳されるものなのである。 己を全体主義の洗脳から守るものは,科学的精神である。 科学的精神が,批判精神である。 ひとは,文句をたれることを批判だと思っている。 批判とはそういうものではない。 批判とは,科学に立つものである。 ひとが簡単に全体主義に洗脳されるのは,科学的精神と無縁でいるからである。 そして,科学的精神と無縁でいるのは,科学的精神を教えられることがないからである。 実際この社会は,科学的精神を潰すことの方に熱心である。 即ち,コンプライアンスでがんじがらめにして,科学的精神を潰す。 その最たる場所が,他ならぬ学校である。 学校はいつも馬鹿な戦争の先兵である。 論より証拠,いまの学校の様を見よ。 ちなみに,マスコミや学校は,己に代わるものが無いのをいいことにして,これまで存続してきた。 しかし,若年層における新聞をとらないことのアタリマエ化,不登校のアタリマエ化が示すように,マスコミや学校は代わりを考えられるものになった。 実際,コンプライアンスを唱えるしか能の無くなったマスコミ・学校は,無くなった方がよいわけである。 ──「第○波馬鹿騒ぎ」の含蓄は,こんなテーマにも及ぶ。
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