Up | 粘菌に知能は無い | 作成: 2019-12-10 更新: 2019-12-10 |
そしてそれぞれ,自分のニッチを学者の世界の中に見つけていく。 「幼稚」も,これら知性のうちである。 「幼稚」は,疑似科学 (トンデモ科学) をつくる。 疑似科学にも,取り柄はある。 疑似科学がする<はみ出し>は,ひとにとって<根柢の見直し>の契機になる。 しかしマスメディアはたいてい疑似科学の方に乗ってしまうので,教育的には弊害の方がやはり大きい。 粘菌に対し「知能」を立てる学者が現れている。 粘菌の行動に,知能を見ようというのである。 粘菌は,「迷路」を解く。 この問題解決のメカニズムを研究することと,この問題解決を知能の発現に見立てることは,まったく別のことである。 実際,水も「迷路」を解く。 壁でつくった迷路の入口から水を流す。 行き止まりに至る経路に入った水は停留し,結果として,入口から出口への最短コースを示す水流が出現する。 「迷路」を解く粘菌に知能を見ようとすることは,「迷路」を解く水に知能を見ようとすることと同じである。 そして,前者の幼稚を笑い話で済ませられないのは,水に知能を見ようとする者が実際に現れてくるからである。 それは今世紀のことであるが,小学校で「水においしくなれと言うと水はおいしくなる」を教える教員が現れた。 スタジアムで観衆のウェーブが起こる。 そこには,運動中枢は存在しない。 《個々が隣の人の上下運動に倣う──<倣う>は時間差を伴う》という局所的なメカニズムが,結果的にウェーブを現す。 雪の結晶生成に,中枢は存在しない。 局所的なメカニズムが,結果的に見事な形を現す。 粘菌や水の「問題解決」も同じである。 局所的なメカニズムが,「問題解決」を現す。 人の歴史では,「局所的なメカニズム」の考えは後発になる。 「中枢」の考えが先になる。 典型が,アニミズムである。 粘菌に対し「知能」を立てる学者は,先祖返りというわけである。 水の「問題解決」を知能にしないためには,知能を<中枢>の意味にしなければならない。 「局所的なメカニズム」も知能にしてしまうと,水も知能を持ってしまうことになる。 <中枢>の実体概念は,「脳」である。 「知能」は,脳の機能として定義するものになる。 かくして,水は知能を持たない。 粘菌は知能を持たない。 植物も知能を持たない。 「知能」を主題化することになるのは,脳を明瞭にもつようになった動物種からである。 ここで「明瞭」の言い方をするのは,動物種による脳の違いは<有る・無い>ではなく<不明瞭から明瞭までのグラデーション>になるからである。 したがって知能も,<有る・無い>ではなく<不明瞭から明瞭までのグラデーション>になる。 しかしこのグラデーションを見ることは,植物や粘菌や水にまで知能を立てることとは違う。 ──よくよく吟味すべし。 |