Up | 「別個」 | 作成: 2015-01-01 更新: 2018-05-11 |
これに対し,「見分けがつかない」と思う。 そして「見分けがつかない」と思うのは,2わのカラスを違うものとしているからである。 同製品の鉛筆が二本。 これに対しては,「見分けがつかない」という考えは端から浮かばない。 同じものとしているからである。 両者の別は何か。 2わのカラスに違いを立てるのは,カラスに<わたし>を観ているためである。 2わのカラスに対する「違う」の見方は,「<わたし>が違う」である。 <個>の措定が要るのは,「別個」を考えられない生物種が存在するからである。 実際,「別個」は,生物一般の含蓄ではない。 単細胞生物は,細胞分裂して増殖する。 細胞分裂は,「個体の分裂」か? それとも,「一つの個体が終わって,新しい二つの個体が始まる」か? 「一卵性双生児」を考える。 受精卵の最初の分裂において,2つの細胞が分離し,それぞれが個体として胎内成長して生まれてくるのが,一卵性双生児である。 双生児は,別々の個体になる。したがって,これは「個体の分裂」とは言えない。 では,「一つの個体が終わって,新しい二つの個体が始まる」か? 生物学は,単細胞生物の細胞分裂を,「生殖」と呼んでいる。 二つの個体が誕生したという解釈である。 これは,「一つの個体が終わって,新しい二つの個体が始まる」の解釈である。 株立ちの木を,根元で半分に切り分け,それぞれを独立に生かす。 もとの木はもう残っていないから,これは「一つの個体が終わって,新しい二つの個体が始まる」か? しかし,株分けが「半々」ではなく「九一」だったらどうか。 九の方に,もとの木があるように思えるのではないか? 「一つの個体が終わって,新しい二つの個体が始まる」の解釈は無理になるのではないか? しかし,「半々」と「九一」の間は連続している。 ある種の樹木は,枝を折って土にさせば,根を出し,個体として育っていく。 この場合も,「一つの個体が終わって,新しい二つの個体が始まる」ではない。 しかし,枝挿しと株分けの間は,連続している。 特に,「半々」の株分け──「一つの個体が終わって,新しい二つの個体が始まる」──と連続している。 ここに,二本の木が寄り添って立っている。 この二本は,根でつながっているかも知れない。 根でつながっていたら,これは一個体か? 地上1m で二つに分枝する樹,これは一個体と見ることになる。 「二本は根でつながっている」は,「地上1m で二つに分枝」と連続している。──地上1m は,地上 10 cm,地下10 cm, ‥‥‥ と連続する。 したがって,「二本は根でつながっている」は,一個体か? しかし,<根でつながっている>にも,「がっしりつながっている」と「かろうじてつながっている」がある。 そして,「かろうじてつながっている」は「わかれている」と同じことである。 人がカラダの一部を失う。 このとき,残った部分に個体がある。 ──失った部分には,個体の資格がない。 しかしこれは,「個体」の意味を考えさせる。 「どこまでが個体か?」となるわけである。 プラナリアは,この疑問から自由である。 カラダをぶつ切りするとき,それぞれが成体に変態するからである。 しかしこの例は,「どこまでが個体か?」の疑問を「そもそも別個とは何か?」の疑問へと拡げるものでもある。 実際,ヒトのカラダは,器官レベル,細胞レベルで,独自の運動がある。 ヒトとプラナリアの間は,連続している。 上に出て来た問いは,答えの無い問いである。 答えが無いのは,「別個」の概念がそもそも立たないところでの問いだからである。 |