Up イデオロギーは遺伝子の体 : 要旨 作成: 2021-12-17
更新: 2021-12-17


    ひとは,「自分の体」の概念をもつ。
    ひとがつくる「自分」の存在論は,体と分けて「自分」を措くというものである。
    こうしてひとは,「自分」とは何か?と考える。
    そして,宗教や哲学に行ってしまう。


    体は,遺伝子の体である。
    そして「自分」は,この体のうちである。
    即ち,「自分」は体の効果である。

    体は,行為する。
    体の行為は,「体の外延」という位置づけになる。
    この意味で,行為は体のうちである。


    遺伝子は,体を用いて生きる。
    体を使い捨てして,生き続ける。
    体とは,遺伝子が生きる<方法>のことである。
    体は,遺伝子に使い捨てされることが務めである。

    遺伝子が体を使い捨てして生き続けるプロセスは,「進化」のプロセスになる。
    即ち,体が変わりつつ遺伝子が変わる。
    この進化は,「自然選択」で説明される。
    現前の体・遺伝子は,選択されて現前している。
    体・遺伝子の歴史は,選択されなかった者たちの死屍累累である。


    イデオロギーは,人の行為の要素である。
    したがって,体のうちである。
    こうして,イデオロギーは,遺伝子の<方法>セットに組み込まれているものである。

    人がイデオロギーに嵌まるのは,遺伝子がそうさせているのである。
    人がイデオロギー的存在でしかおれないのは,遺伝子がそうさせているのである。
    なぜ遺伝子はこんなふうなのか?
    遺伝子が求めたわけではない。
    自然選択された遺伝子がこうだった,というだけのことである。

    人はイデオロギーを択んでいるのではない。
    主従の関係は,これの逆である。
    即ち,人はイデオロギーが使い捨てにする体に過ぎない。
    人は,イデオロギーに使い捨てされることが務めである。


    遺伝子は,体を多様にすることを<戦略>にしている。
    「リスク分散」というわけである。
    イデオロギーへの人の嵌まり方は,多様である。

    自然選択は,この多様性に対しても働く。
    イデオロギーは,競争する。


    <イデオロギーが自然選択される>の形は,<多数派の形成>である。
    イデオロギーは,多数派になろうとする,全体になろうとする。
    こうして,この勝者が敷く体制は,全体主義である。


    全体主義イデオロギーは,<正義>を己の形にする。
    「正義」の意味は,「人が抗えないもの」である。
    人が抗えないから,「正義」は全体主義になる。
    こうして,イデオロギーXにおいて,つぎの3つは同じ意味 (契機) である:
    1. イデオロギーの勝者になる
    2. 正義になる
    3. 全体主義体制を敷く


    遺伝子が戦略にしている「体の多様化」は,全体主義/正義への不適応者を一定割合で生む。
    この不適応者に対する呼び名は,「自由人」である。

    自由人は,その存り方を以て,全体主義に抗う者になる。
    全体主義は,自分に抗うものを潰そうとする体制であるから,自由人は全体主義が潰そうとするものになる。
    そこで自由人は,全体主義に潰されないための方法──自己表現の方法──を開発することになる。
    アートや文学,そして科学は,こうして現れる。


    身近な正義イデオロギーの例:
     「アイヌ民族」イデオロギー
      正しい者なら当然,"アイヌ民族" キャンペーンを支持・応援するはず
     「パンデミック」イデオロギー
      正しい者なら当然,コロナ自粛・ワクチン接種するはず
     「地球温暖化」イデオロギー
      正しい者なら当然,異常現象を見つけてそれを CO2 排出のせいにするはず