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Nietzsche (1885),「毒ぐもタランテラ」より
見なさい、これが毒ぐもタランテラの穴だ! その正体を見たいと望むのか?
ここにくもの巣がかかっている。さわって、ふるわせてごらん。
くもがいそいそと出て来た。よく出て来た、タランテラ!
おまえの背中には、黒い三角のしるしがついている。おまえの魂のなかにあるものも、わたしには見当がついている。
おまえの魂のなかにあるのは復讐の一念だ。
おまえに噛まれると、真黒なかさぶたができる。
おまえの毒は復讐心を植えつけて、人びとの心を狂わせ、踊らせる。
平等の説教者たちよ!
わたしが諸君に話しているのは比喰だ。諸君も人びとの心を狂わせ、踊らせるではないか。諸君は毒ぐもタランテラだ。
隠れた復讐心の持ち主だ!
しかし、わたしは諸君の隠しているものを明るみに出してやろう。
わたしが諸君に面とむかつて、わたしの高山の哄笑をあびせかけるのもそのためだ。
わたしが諸君のくもの網をこわすのもそのためだ。
諸君を怒らせ、嘘でかためたその穴からおびきだし、諸君の口癖の「正義」の背後から、諸君の復讐心をおどりださせようとするわけだ。
なぜなら、人間が復讐心から解放されること、これがわたしにとって、最高の希望への橋であり、長期の悪天候のあとの虹であるから。
もちろんタランテラの願うところは、そうではない。
「世界中に、われわれの復讐心で暗くなった悪天候がゆきわたること、これをわれわれは正義と呼ぶ」──かれらはたがいにこう語りあう。
「われわれに対して等しくないすべての者に、復讐と誹謗を加えよう」──タランテラたちは心をあわせて、こう誓う。
「そして『平等への意志』──これこそ将来、道徳の名にかわるべきものだ。権力を持つ一切のものに反対して、われわれはわれわれの叫びをあげよう!」
諸君、平等の説教者たちよ!
してみれば、権力にありつかない独裁者的狂気が、諸君のなかから、「平等」を求めて叫んでいるのだ。
諸君の、ふかく秘められた独裁者的情欲が、こうした道徳的なことばの仮面をかぶっているのだ!
傷つけられた自負、抑圧された嫉妬、おそらくは諸君の父祖の自負であり、嫉妬であったものが、諸君のなかから、復讐の炎となり、狂気となってほとばしり出てくるのだ。
父親が黙って押隠していたものが、息子になると、口をききだす。
わたしはしばしば息子が、暴露された父親の秘密であるのを見た。
この説教者たちは、いかにも感激に駆られている者といったふうだ。しかしかれらを興奮させているのは、純真な感情ではなくて、──復讐の念なのだ。
またかれらが緻密で冷静になるなら、それは精神がそうさせるのではなくて、かれらの嫉妬が緻密で冷静にさせるのである。
かれらの敵愾心は、またかれらをして思想家の道を歩ませもする。
それが敵愾心だということは、──かれらがいつも行きすぎをやることでわかる。
あげくのはては、かれらは疲労のあまり雪の原で行き倒れになったりする。
かれらがあげるすべての不平の声からは、復讐の念が聞こえる。
かれらが呈するすべての讃辞には、ひとを傷つける意図がある。
ひとを裁く者だということが、かれらには無上の幸福と思われる。
しかし、わが友人たちよ、わたしはあなたがたに、こう勧める。
ひとを罰しようという衝動の強い人間たちには、なべて信頼を置くな!
かれらは悪質で、素姓の劣った人間たちなのだ。
かれらの顔からのぞいているのは、首斬り人と密偵だ。
自分の正義をしきりに力説する者すべてに、信頼を置くな!
まことに、かれらの魂に欠けているのは、円熟の蜜ばかりではない。
たとえ、かれらがみずから「善くて義しい者」と称していても、あなたがたは忘れてはならない。
かれらがパリサイ人となるために欠けているのは、ただ──権力だけであることを。
わが友人たちよ、わたしをほかの者と混同したり、取り違えたりしてくれるな。
生についてのわたしの教えと同じものを説く者がいる。
それが同時に平等の説教者、すなわち毒ぐもでもあるのだ。
毒ぐもどもは、その穴のなかにひそんで、生に背いているにもかかわらず、しかも生を讃え強調する。
これはその相手に打撃を与えようという意図だ。
その相手とは、現に権力を掌握している者たちのことだ。
この権力者たちのあいだでは、いまもなお死の説教がはばをきかせているからである。
もしそうした事情がなければ、タランテラどもはまた別の教えを説いたであろう。
その昔、,最もたくみに世界を誹謗し、異端者を火あぶりにした者たちも、ほかならぬこの毒ぐもの一族であった。
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引用文献
- Nietzsche (1885) : Also sprach Zarathustra
氷上英廣 [訳]『ツァラトゥストラはこう言った (上下)』(岩波文庫), 岩波書店, 1967.
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