Up 「自然保護」イデオロギー 作成: 2015-02-11
更新: 2015-02-12


    クマが人境に降りてくる。
    お定まりの「人間がいかにヒグマの生息環境を壊したか」話になる。
    それの説く因果は,ほんとうなのか?
    ウソである。

    何がこの手の話をつくらせているのか?
    「自然保護」「生き物愛護」のイデオロギー,「自然保護」「生き物愛護」のディレッタンティズムである。

    自然は,生き物の楽園ではない。
    自然の中で,生き物はギリギリ・カツカツで生きている。
    余裕は生じない。
    余裕が生じることは,単に,そこに割り込んで来て埋めてしまう生き物がたちまち現れることである。
    そして同類が,余裕をつぶし合ういちばんの競争相手である
    クマが人境に餌を求めに出てくるのも,クマの「ギリギリ・カツカツ」のうちである。


    しかし,人境に降りてくるクマは,人境を危険な場所としていないクマということでもある。
    翻って,クマが人境を危険な場所にしているとき,それはどんな理由からそうなったのか?

    クマが人境に降りてこないのは,人境をクマにとって危険な場所にした<人の営み>があったからである。
    「狩猟」である。

    いま,「狩猟」はない。
    クマは,人境を危険な場所とはしなくなる。
    ますますしなくなる。
    そして,人境に降り,「危ない熊」にされて,駆除される。
      註 : 人境に降りるクマは,人が出会い頭をやってしまうクマであり,出会い頭での人の初動次第で大惨事をしでかすことになるクマである。そこで,駆除される。

    クマにしてみれば,「これはないだろう──危険な場所ならそうと,前もって教えろよ」である。
    そしてこの罪つくりをやっているのが,「自然保護」「生き物愛護」イデオロギー/ディレッタンティズというわけである。


    自然は,保護を考えるものではない。
    保護など,できることではないからである。
    それに,自分の好みのものを「自然」にまつりあげているのが,「自然保護」である。
    自然の要素の大部分は,人の苦手なものである。
    それら苦手なものには,人は排除・退治の姿勢をとる。
    「自然保護」を言う者は,自分のこのご都合主義を見ない。
    鈍感なのである。

    自然は,「自然保護」に対し何と返してくるか?
    笑止千万」と返すのである。
    その声を聴き取るべし。