この立場では,〈全体〉が,常識的に考えられる“要素”,“要因”,“個”等に先行する(註)。“要素”等は〈全体〉の一つの局面(様相)に過ぎず,また分析という手続きで〈全体〉から得られるものでもない。 実際,“要素−構成−分析”の発想は,合理主義的オリエンテーションの下にあり,全体主義の認めるものではない。 全体主義については,存在論的立場と意味論的立場の両方を考え得る。ここでは,差し当たり,意味論的立場として導入しておく。このときそれは,
ひとは,“全体主義的オリエンテーションの下では,探究のしようがない”と言いたくなるかも知れない。しかし全体主義の立場に即けば,この苦情は批判としては筋違いということになる。即ち,
(註) “全体”の意味は,主義や主題に依存する。例えば,“人”に対する“類的存在”,“社会的存在”,“歴史的存在”といった規定では,それぞれ異なる意味の“全体”が考えられている。 |