ライルは〈事態−行動〉が“心”の身分であると見なす。そこで,“心”を原因とする因果関係で行動を説明することは,(行動の自己言及を含んでしまう)カテゴリー錯誤ということになる。 しかし“カテゴリー錯誤”の批判は,〈事態−行動〉の連関に説明を与えようとする試みの阻却に及ぶものではない。“カテゴリー錯誤”の批判で,ライルは,行動の原因としての“心”の概念を阻却し,“心”を〈事態−行動〉として身分づけるところまで来た。したがってライルは,むしろ,〈事態−行動〉としての“心”の探究に道を開いたと言える。 しかし,この探究にライルが抵抗することは明らかである(註1)。またわれわれにとっても,ライルに共感することは難しくない。実際,〈事態−行動〉の連関を物理的に説明するということは途方もないことである(註2)。ある人がこの探究を途方もないことと考えずに探究を試行しようとしているとしたら,われわれは,その人の考えには何か重要なものが欠落していると考えざるを得ないのである。 しかしそれにしても,
(註1) “人がどのようにして何かを見たり,理解したりするのかをめぐる論争については,もしそれが何らかの内的な理解のメカニズムや知覚のメカニズムの要請を含むならば,自分はそれには関心がないとライルは明言している。・・・・ライルは,概念的な問い(「人が何かを理解したと報告することが見込まれる状況とはどのようなものか」)に対する,内的なメカニズムに訴える回答(「私はある情報をある仕方で処理したので,あることを理解した」)に反対を唱えた。 彼の見解によれば,(デカルトやカントの流儀で)内的なメカニズムを要請しても,われわれの理解は一歩も前進しないのである。ライルは,もし問われたとしても「表象のレベル」を受け入れる理由など何一つ認めなかったことであろうし,一つの科学のすべてを,彼からすればそもそも要請することの正当性が疑わしいスキーマや規則や表象のような「内的存在者」を基礎にして打ち立てようという今日の努力に対しても共感することはなかったことであろう。” (Gardner,1985,p.65) (註2) 例えば,〈事態−行動〉における“事態”には,“・・・・の国で・・・・の事件が起こったというニュースに出会う”のようなものが代入されるのである |