4.5 意識状態


     ライルは,“心”を行動の傾向性と規定することで,“意識状態”を“傾向性”に還元する立場を引き受けたことになる。そのため,この還元を不自然とする論難を受けることになる。

     因に,ウィトゲンシュタインは,“心の記述”と言うときの“心”に対し,“意識状態”と“傾向性”の区別を立てる:
      “私は「意識の状態」について語りたい。そして,ある絵を見ているということ,ある音を聞いているということ,ある痛みを感じているということ,ある味を味わっているということ,等々,を意識の状態と呼びたい。
      私はまた,信じているということ,理解しているということ,知っているということ,意図しているということ,等々,は意識の状態ではない,と言いたい。
      もし私が後者のそれらのものを差し当たり「ディスポジション」と呼ぶならば,ディスポジションと意識の状態の相違は,前者は,意識が中断したり注意がそれたりしても,中断しないということである。”
      (Wittgenstein,RPP,vol.2,§401)
    確かに,“意識状態”を否定することは不自然である。しかしまた,“意識状態”は,“事実か否か”という形で問われるものではない。勿論,これを実体として取り出そうとする試みは成功しない:
      ... Suppose everyone had a box with something in it: we call it a “beetle". No one can look into anyone else's box, and everyone says he knows what a beetle is only by looking at his beetle.
      ... But suppose the word “beetle" had a use in these people's language? ── If so it would no be used as the name of a thing. The thing in the box has no place in the language-game at all; not even as a something ...
      .... if we construe the grammar of the expression of sensation on the model of 'object and designation' the object drops out of consideration as irrelevant.
      (Wittgenstein,PI,§293. Cf.PartII,p.207)