- 国立大学が一律インターネットにつながったのが 1994年3月,それからほぼ 15年。
この間,インターネット/ITの普及と定着が着実に進行。──特に,2000年以降は急速に進行。
- 「教育的コミュニケーションでのIT活用」の基本形である「ディジタル・プレゼン」「WBT」が定着。
「教育におけるインターネット/IT活用」の「なんぼのものか」が,見定められるようになってきた。
以前の問い:「なんぼのものになるか?」
いまの問い:「なんぼのものであるか?」
- <批判>の立場からの論考が必要。
- 広く・深く考えられるために,多様な視点・論点をもてることが重要。
- この立場から,授業にディジタル・コンテンツを使うことの<問題点>を取り上げ,「授業にディジタル・コンテンツを使う<意味>」の考察へとつなぐ。
2. ディジタル・コンテンツは,作り手・送り手の都合/満足の表現
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- ディジタル・コンテンツには,作り手・送り手にとってのメリットがある。
- 作成が簡単,速い
- きれい・見栄えのよいものがつくれる
- 保守・管理,つかい回しが簡単
- インターネットに乗せられる
- 作り手・送り手の都合/満足は,受け取る側の都合と関係なし。
そして,作り手・送り手は,受け取る側の都合の問題を見過ごしてしまう。
このことを,つぎの「ディジタル・プレゼン」で見ていく。
3. ディジタル・プレゼンは,「ショー」で終わってしまう。
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- 受け手は,「注意の向け先が定まらない」体勢を強いられる。
「プレゼンターは,ディスプレイのどこを指して話しているのか?」
「ディスプレイを見るのか,話を聴くのか? (両方一緒にはできない。)」
- 内容が,アタマ/カラダに残らない。
- ディジタル・プレゼンのコンテンツは,
- 「流れる景色」(目・耳で追いかける形のもの) は,アタマに残らない。
- バーチャルは,カラダをすり抜ける。
- きれいにつくられたものは,受けとめられない。
「きれい」は,作り手が整理を重ねることの結果。
この整理の中身は,本質抽出・形式化。
「整理される」は,「直接的でなくなる」であり,受け手にとって難しいものになること。
- このようなディジタル・プレゼンは,「伝える」メディアではなく,「伝えたことにする」メディア。
- ディスプレイが終了 = 「伝える」が終了
- 「セレモニー」になってしまう
- どうしてこうなるのか?
ディジタル・プレゼンをつくる者が嵌る落とし穴がある。
4. ディジタル・プレゼンをつくる者が嵌る落とし穴
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- ディジタル・プレゼンは,インタラクション向けではない。
実際,インタラクションを考えるときは,ディジタル・プレゼンの形は使わない。
- ディジタル・プレゼンの設計では,<相手>が存在しなくなる。
プレゼンを,インタラクションが無い形に設計
→ <相手>が存在しなくなる
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確認: |
<相手>は,つぎのことによって意識されるものになる:
- インタラクションが起こるようにメディアをつくる。
(相手のことを考える。)
- 意思疎通に失敗し,愕然とする。
(<他者>(想定外) として相手が立ち現れる。)
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- <相手>が存在しなくなるとき,<相手>は自分。
──「伝える」を「伝わる」とイコールにしてしまう。
「自分の伝えるものは,相手がそっくり受け取る」
→ 相手=自分の言うことがそのまま通じる者
→ 相手=自分
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- プレゼンは,プレゼンターの「独り言」になる。
- 相手がついて来れない盛りだくさんで難しい内容にしてしまう。
- 「相手のずっと先を行っている/相手よりずっと多く知っている」でなければ,プレゼンターが務まらないと思ってしまう。
そして「相手=自分」なので,自分の知らないことを新しく勉強し,これをプレゼンの内容に追加していく。
こうして,盛りだくさんでそして難しい内容になっていく。
- コンテンツと時間の配分を,相手不在でやってしまう。
- ディスプレイ&説明に自分が要する時間をもとに (「相手が受け取れる時間をもとに」ではなく),コンテンツを並べる。
- 特に,「時間が余る」計算になるときは,コンテンツをさらに加える。
- 盛りだくさんを消化するために,早口になる。
- このことが,「授業におけるディジタル・コンテンツの使用」でも,起こり得る。
これを,つぎに問題にする。
- ディジタル教材/学習材を考える者は,その前に,つぎのことをしっかり理解していなければならない:
- 「わかる」とはどうなることか
- 「わからせる」とは,何をすることか
- 新しい内容を受けとめ・消化するのはすごくたいへんである,ということ。
──学習においては,カラダはひどく不自由なものである。
- 目に見えない・意識に上らない色々なことが,「わかる」に関係している。
つぎの図が「直方体」に見えるのは,アタリマエではなく,いろいろ勉強してきたことの賜である:
- 「わかる」とは,「つくれる」になること。
「教える/わからせる」は,「つくれるようにする」。
- 教科の個々の主題は,それぞれ一つの「つくる」。
──実際,対象の分析・再構成の仕方が,主題になっている。
例:「和音」(音楽),「扇状地」(地理),「円」(数学)
- よって,「わかる」とは,「つくれる」になること。
- 「見る・聴く」は,「つくれる」にならない。
「つくる」は,自分で実際にカラダを使わないと,身につかない。
- 見ているが見ていない,聴いているが聴いていない。
- 「つくる」は,カラダのもの (身体性) である。
自分で実際にカラダを使わないと,身につかない。
- 目に見えているものを知るために,スケッチする。
- 読めるが,書けない漢字。
- 泳ぎを見て泳げるようには,ならない。
- よって,授業の形は,「カラダを以て,つくらせる」。
「見せる」は,「教える/わからせる」にはならない。
- 授業は,ゆっくりやらねばならない。
- 「つくる」ができるようになるのには,時間がかかる。
これは,カラダの都合による。──カラダは,不自由なものである。
- 特に,新しいことは,僅かな量でも・簡単なことでも,できるまでに時間がかかる。
- ディジタル・コンテンツを使用するとき,傾向性として,授業者は授業の条件に反することをやってしまう:
- 授業の形が,「つくらせる」ではなく,「見せる」なってしまう。
──「見る=できる」にしてしまう。
- 授業の進行が速くなってしまう。
──わからない授業をやってしまい,そしてそのことに気づかない。
- ディジタル・ディスプレイは,「つくる」を教えられない
- ディジタル教材/学習材をつくろうとする授業者は,「つくる」のバーチャルをつくろうとする。
しかし,「つくる」のバーチャルでは,「つくる」を教えられない。
- 「ディスプレイで捨てられてしまっているもの」に気づけることが重要。
- 図・記号・テクストのディスプレイは,この図・記号・テクストをつくる工程(書き順・組み立て順序) を示していない。
- 工程のステップ・バイ・ステップのディスプレイ,あるいはアニメーションへとつくり込んでも,この図・記号・テクストをつくるカラダの動き・力加減・呼吸といったものを示せない。
- ちなみに,「カラダを閑却し,<つくる>を教えない」という誤りを同じく犯しているものに,「ワークシート」がある。
(1) 推論
推論を「見せる」は,「わからせる」ではない。
推論は,所与からそれの含意の一つを「結論」として導く論理的な行程をつくること。
推論が「わかる」とは,この「つくる」を自らできること。
例:「量の表現」のしくみ(論理)
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簡単なことのように見えるが,実際に自分でいろいろ書いてみることをやらないと,使えるようにならない。
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(2) 図形
図形を「見せる」は,「わからせる」ではない。
「図形」は,図のつくり方 (構成の論理的方法) のことに他ならない。
図形が「わかる」とは,この「つくる」を自らできること。
例:単体複体
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簡単なことのように見えるが,実際に自分でいろいろ書いてみることをやらないと,使えるようにならない。
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- 「チョークと黒板」は,つぎの授業条件に関して合理的:
- 授業の形は,「つくらせる」。
- 授業は,ゆっくりやらねばならない。──カラダが「つくる」を身につけるのには,時間がかかる。
実際,
- 授業者の書く行為に,「つくる」のカラダの動きが示されている。
- 授業者が書くのと合わせて,学習者の読み・受け取りが進行。
- ディジタル教材を使うと,どうしても,「相手=自分」「見る=できる」になってくる。
- また,ディジタル・コンテンツを使う授業に執心すると,基本の修行が疎かになる/忘れられる。
- 基本になるのは,従来型の授業をする力。
- 授業経験の浅い者は,それでなくとも,「相手=自分」「見る=できる」で,授業をやってしまう。
授業経験の浅い者は,ディジタル教材に執心してはならない
ディジタル教材をやる前に,従来型の授業をする力を先ずしっかり身につけるべき。
- 「ワークシート」についても,これと同じことがいえる。
- ディジタル・ディスプレイを使ってよいのは,ディスプレイでほんとうに済ませられる場合:
「導入」 : |
目標を示す。
(「これが何であるかは,実際に到達したときにわかる。」という形の提示)
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「展開」 : |
素材として,既習を導入──これの提示。
資料を示す。
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「まとめ」: |
目標到達としての完結形を示す。
行程を振り返る。
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- ただし,このような「ほんとうに相応しい場所で使う」をやろうとすると,授業の中でメディアの切り替えをやっていくということになり,今度は,「面倒/煩瑣」「授業の流れが悪くなる」という別の問題が生じてくる。
- オンライン教材は,いろいろな・たくさんのメリットがある。
しかし,オンライン教材の実現はたいへん。──実際,一生プロジェクトになると考えた方がよい。
- オンライン教材の実現は,つぎのステップを踏む:
1. |
オンライン教材づくりが志向される。 |
2. |
コンテンツ作成およびサーバシステム構築に取り組む。 |
3. |
コンテンツおよびサーバーシステムが一定程度できあがる。 |
4. |
生徒がオンライン教材を自学習に使うようになる(註)。 |
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(註)「つくる」イコール「使われる」ではない。
そして,絶えず修正・改良作業をし続けることになる。
- 最初「よい・正しい」と思っていたものは,「拙い・まちがい」になる。
これは,経験・学習の蓄積の賜。
- ディジタル教材は,教材の望ましい形 (将来形) なんかではない。
- 「使えるディジタル教材」は,失敗体験の十分な蓄積の上に,可能になる。
- ディジタル教材を試行することの収穫は,失敗学。
ディジタル教材の失敗学から,「教える/わかる」とはどういうことかが反照的に理解されてくる。
- 教科専門性が根本。
- 教科専門性が弱ければ,確かな教材はつくれない。
──しかも,自分の間違いに気づけない。(← これがいちばんこわいこと。)
メディアリテラシーが教材をつくらせるのではない。教科専門性が教材をつくらせる。
- 「近道」を信じてはならない。
──この意味で,「センス」を信じてはならない。
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