Up 卒業文集 (『啓明 ─ 生徒会誌』10号, 1965-3/15 ) 作成: 2014-01-09
更新: 2014-01-09





    当時といまの中学生の違いを見るという趣旨で,生徒作品をここに紹介する。
    有島青少年文芸賞 (北海道新聞社・有島記念会主催, 中学生・高校生対象) の入選作品である。
    一般学生と比べ格段上のものであるが,ここで注目して欲しいのが,読書量である。 当時の学生において,この読書量はけっしてめずらしいものではなかった。
    ものを読む・書くは,当たり前のことではなく,これくらいのことをして身につくものなのである。 翻って,いまの学生の読み書きの力の無さは,当たり前ということになる。

    ヘッセへの手紙

    三年 (名前はいちおう伏すとする)

    夜がふけてきて、あれこれと思いめぐらしているうちに、ふとあなたを思い出し、ペンをとりました。 実際、失礼な話ではありますが、数年前まで、私は、あなたが同じ世界でものを書く人としておられたのだということを知りませんでした。 私には、あなたがツルゲーネフやドフトエフスキー等と同じ時代の人のように思われたのです。 それほど、あなたの世界、初期の作品に見るそれと、私の世界はかけはなれて感じられていたのです。

    あれは一、二年前のことでしょうか。 地方紙の片隅に、あなたの惜しまれるべき死を告げる記事をみつけて、私は驚きとともに、我々若者の貴重な存在のあなたが、ツァラツストラとして、世界の街角に立って語りかけることもないという現実を惜しむのでした。 できることならいつまでも、いや、今だけでも再来して、我々若者に啓示していただきたいというおろかなことを思いながら、このペンをとっています。 あの円めがねをおかけになってお読み下さい。

    私があなたを過去の人と思いこんで知ったあなたの世界の一端は、確か、『郷愁』だったと記憶しています。 あれは、私の文学への姿勢を大きく変えたものだといえます。 それまで私の抜した文学といえば、やはり、グリム、アンデルセン、メーテルリンク等の世界をへて、スティーブンソン、マークトエーン、デュマをむさぼりました。 そう、それが、少年らしい夢の表現されたものだったから読みあさったのでしょう。 そして、シートンを片っぱしから片づけ、『クオレ』に初めて考え、アメリカの『白鯨』のすさまじい描写にとりつかれ、夜のふけるのも忘れたものでした。 そして、どちらかといえば、『クオレ』の会話より、『白鯨』の描写を求め、より多く手にしたと思います。 その私が、あなたのものを手にしたのです。今思えば、それは、ひどい乱読のゆえだったのでしょう。 そして、そのあなたの世界の美しさ、清らかさは、私の読書内容をたった一冊で変えたのです。 まったく不思議であり、あなたを賛えずにはいられないことの一つです。

    私はまもなく、あなたの淡彩のような世界、初期作品にひかれ、求めるようになったのです。 あなたが詩人であるということを知ったのもそのころでした。 私には、詩の世界、詩人の魂というものがはっきりつかめず、興味があったのです。 それが、なおのこと、あなたの方向に向け、ひきつけられる原因となったのです。 あなたの美しい、そう、すべてが、まるで詩であるかのようなそれにだけ、目も心も、つまり私全体が魅せられたのです。 ドイツだけでも、リルケにも接し、ハイネを味おうとしました。 しかし、私は、ドイツの詩人、一人をあげる時、誰を指すかと問われれば、きっとあなたをあげます。 あなたと、リルケやハイネ、ゲーテを比較したわけでもありません。 はっきりと理論だって言えるわけでもありません。 しいて言えば、私はあなたの世界にあこがれているのかもしれません。 もちろん、リルケも美しいと思います。 ハイネが人々を酔わせるということもうなづけます。 しかし、あなたの人間、あなたの創造された人間、人間関係が、詩的情景の中にあるということが、私をあなたの世界のうれしいとりこにするのです。 魅せられるのです。 そうです。 異ったものがお互いにひきつけあうように、男と女が恋をするように、まるで違う環境の私が、あなたの世界にひかれるのです。 まるで違う環境とは、現代という冷たい響きを持つものです。 その顔は多くの表情を持っています。 一つは、耳まで口のさけた恐ろしい悪魔。 冷血漢のようであり、また一つは、堕落した僧侶のようでもあります。 そして、不可思議なほど幾何的で、この小さな人間の私には、ひどく難解なものです。 はっきり定義づけられていないものほど恐ろしくも、また、魅せられるものもありません。 しかし、私は、現代には魅せられません。 はっきり言えば、批判的であり、挑戦的です。 もちろん、恐れにおののいて、穴倉にひきこもってもいません。 現代に細い腕を振りあげてののしり、絶叫し、震えているのです。 そんな時、ふとふりかえると、そこに、あなたの世界、やわらかく奥深い中間色のべールをかぶったそれがあるのです。 ある人は、「昔にかえれ。」と唱えたそうですが、現代ではそうはいかないのです。 あなたの美しい世界、尊い人間らしさということ、愛ということが、心の片隅にけとばされ、ほこりをかぶって、見失われがちなのです。 私は、あなたの啓示、警告、特に後期作品にみる哲学的なそれは、世界中の人々が読むべきだと思います。 そして、文学に、多くの人々が接するようにならねばならないと思います。 ドイツ語で、フランス語で、英語で。 そして、文盲の人々は、そのためにも文字を知るべきです。 あなたが、第一次大戦後のさまよえるドイツの百年へ、祖国愛と人類愛から語りかけた作品にしてもしかりです。 あの時代の彼等のみではなくして、当時の未来である現代と、世界中の若者に語りかけられたものと思われます。 常に、あなたは、我々に語りかけられていらっしゃるのです。 活字です、活字のつらなりが、まるで永久的にそうなのです。

    しかし、それは、どれほど多くの若者が手にしたでしょう。 彼らのうち、幾千人が考え、そして追求したでしょう。 その現代で、偶然として、人間らしさをうたったものが、多くの人々に読まれます。 それは、心の片隅にけとばされていたものが、寸時あらわれたに過ぎません。 私は、現代人は、みな二重人格者なのだという感を強くするのです。 人間不在のむくろに、ときたま、人間が帰って来て、すぐ出て行くのです。 ただそれだけです。 彼らは、なぜ、あなたや多くの文学に接しようとしないのでしょう。 故きをたずねて新しきを知ることをしないのでしょう。 ダイジェストなどというしろものをポケットにするだけで、古典、原作を重視しないのでしょう。 きっと、それは、現代にはびこる何ものかと、退廃的なものが、そうさせているのでしょう。 当然にして、多くの若者は、内をかえりみることなく、そのような堕落した外に、何かを求めようとするのです。 彼らに未来はなく、向上もないのです。 彼ら自身がそうしているのです。 弱い人間ですが、人間は存在しています。 しかし、そこにも、大きく口をあけた悪魔の現代が待っているのです。 そこに、人間がむくろになるか、ならぬかの岐点があるのでしょう。 また、現代の矛盾をみつけた若者は、ひ弱く冷血漢に屈し、絶望し、葬られるのです。 その中で、私も一人の若者として、四角い現代の部屋の中で矛盾をみつけ、反感をいだき、壁に怒りをこめた小さな落書きをするのです。 そして、混乱した頭を二本の腕で支えて、私は、何かを得ようと必死なのです。 ある時は心で落涙し、共鳴し、絶叫するのです。 過去のそれを賛え、現代をののしって。 私は、あなたをふりかえりふりかえり、現代に反発しながらも生きているのです。

    そして、時々、あなたの再米を求めたりします。 ピカソやダリを見る一方、片目で、あなたの水彩画をも見たいと思います。 現代の教育を受け、知識人と言われる人々の言葉を聞く一方、その耳で、あなたの言葉も聞きたいと思います。 あなたに、ツァラツストラとして、世界の街角に立っていただきたいとも思いました。 もしも、あなたの再来があったなら、私も含む多くの若者が走り寄って言うでしょう、口ごもって、「米ましたね。」と。 そして、あなたの言葉に耳を傾けるでしょう。 一言も聞きのがすまいと目をこらし、あなたの目を見つめて、それはきっと、何かが得られるであろうという期待をもって。 他界されたあなたに、このようなひとり言を書き、あなたの再来を求めるのも、私に人間が存在しているのだと思い、心をいやすためからかもしれません。

    返事はいりません。 私が、返事になる何かをみつけます。 きっといつか。 誰にでもよかったのですが、ふとあなたを思い出したので、宛名をあなたにしました。 あと数時間で朝です。 あすも、いや、もうきょうです。 私は、人間らしくありたいと思います。

    ヘルマン・へッセへ

        誰かに読んでもらおう。
        人間に読んでもらおう。
        そして、彼らにも、
        不在のむくろの中に人間が、
        そう、たった一人でも帰って来たら、
        それはなんという喜びであろう。
             ─ 日記から ─