数学教授/学習についての知識論的一考察 ── "数学教材研究"論に向けて |
数学教材(註)研究を一個の出来事として見るときには,ひとまず,二つの要因でそれを捉えることが出来る。 教材として取り上げられる数学的知識がそれの一つの要因であり,研究のスタイルないしパターンがもう一つの要因である。 後者は案外意識され難い要因であって,実際,この要因を対象化することは,現に行っている数学教材研究を(発想から論理まで) 一つの既成のパターン ── 特に,パラダイム ── に則ったものとして相対化することと同じ意味になる。 したがって,数学教材研究のスタイルを研究対象として据えることは,それ自体,"数学教材研究" というものに対してのラディカリズムであるわけだ。 このような研究の範疇を,筆者は《"数学教材研究" 論》と称しておくことにする。 本論文のテーマは,"数学教材研究" 論ヘアプローチする意味で,"数学教材研究" を論ずるための概念枠組を考えていくことである。 但しこの "数学教材研究" として対象にするものは,《教材としている知識が何であり,如何なる具合に把持されるべきであり,またそのためにどのような学習経験が必要になるか》ということを一貫して問題化するレベルの "数学教材研究" である。 したがって特に,"知識" が,ここでは "数学教材研究" を捉える上でのキー・タームとなる。 教育一般の意義は,端的に言えば,学習者に彼自身の<世界>──但し,スタティックではなくダイナミックな──を形成させていくことにある。 学校教育における各教科は,この世界形成を実現させていく仕事をそれぞれの領分において分担するものとして理解される。 この意味で,他教科ではなく正に算数・数学科でなければならないといった意味での算数・数学科の意義は,同義反復的な言い方になるが,それが(他教科では扱っていない) 算数・数学的知識を正に扱っているという点にある。 特に,算数・数学科の目的は,数学的知識を通して開示されることになる世界を,数学的知識の学習を以って獲得させることにある。 ところで,教授/学習が問題になるときに は,数学的知識は数学内知識としてとどまることはできない。 即ち,"数学的知識" とは言ってもそれの深層のところでは各種領域が渾然と入り混じっているのであるが,この事実が教授/学習の場面において顕在化することになる。 算数科に限らず数学科全般について,このことが言えるわけである。 更にここに,もう一つの言及すべき知識がある。 数学教育に関しては,それが歴史的に "形式陶冶" のコンテクストの中で問題にされ続けてきたという事情がある。 即ち,数学教育に "思考力陶冶" の意義を見ようとする考え方が,これまでに色々な装い──今日的なそれは "問題解決(Problem-Solving)" である──の下に繰り返し現われてきているわけである。 この場合,陶冶の内容としては,"思考力" の他にも,"合理的な志向" とか "忍耐力" といったものが一緒に考えられているのだが,これらの "力" で本質的な点は,(それの作用する内容の如何 に依らない即ち,内容(コンテント)フリーという意味での) "一般的能力" としてこれらが発想されていることである。 内容フリーであれば,"力" の射程(守備範囲) は当然広い。 そしてこのことが,"思考力陶冶" のアイデアの理由になる。 数学教育に "思考力陶冶" を絡ませる発想に関しては,色々な問題が起こってくる。 抑々,"何故とりわけ数学教育において思考力陶冶なのか" という疑問が湧く。 しかしここでは一応,数学教育に "思考力陶冶" の意義を見ようとする立場が確固としてある現実を考慮して,"思考力陶冶" をどのように捉えるべきかというところで問題を立てるとしよう。
I 知識 1-1 認識,認識形式 認識とは,所与の<疎外>として<対象>を起こすことである。 <対象>は,したがって,所与に対してはそれの<記号>として関わる。 "記号" は,いまの場合,存在の身分を表わすコトバである。 存在については,認識を契機とするこの記号的存在と,認識に無関係に "在る" 存在としての "実在" との二つのカテゴリーを設けることが出来る。 但し,所与を分節化して "何かが在る" とするのが認識の機能である以上,認識に無関係な存在としての実在は "何が在るか?" という形では問えない存在である。 記号的存在の構成については,<形式>と<内容>の二つの契機を考えることができる。 <形式>とは,所与の<疎外>としての認識の形式──認識形式──のことであり,"パターン" や "ゲシュタルト" の概念に通ずる。 これはまた,所与を "解釈" する形式とも読める。 実際,対象としての記号的存在の "意味" とは,この<形式>のことである他ない。 つぎに,<内容>とは<形式>の内実であり,<形式>で捉えられた所与である。 但しそれは,<内容>=<対象>一<形式> の形で形式的に措定できるのみで,それだけを対象として取り出すことは出来ない。 何故なら,<内容>が対象化されたときには,何がしかの<形式>が投企されたわけだから,はじめの<内容>とは違うものに変わってしまっているからである。 われわれ各人にとっての<世界>とは,対象即ち記号的存在の世界である。 実在の方はと言えば,対象としての記号的存在を介してその存在が気づかれるのみである。 例えば,われわれは,鉛筆という実在には (基本的には) それを正しく "鉛筆" =記号的存在とした上で関わるのであり,実際,"鉛筆" の背後の "実在" をイメージすることはしても,鉛筆のゲシュタルトに沿わない形で "実在" をイメージすることは通常しないわけである。 記号(的存在) の記号たる条件は,それの存在論的な契機を問うことが問題にならない限りは,実在に対して自立した体系をもっているということである。 このことがまた,記号が人間にとっての<現実>=<世界>であることの条件である。 認識とは所与の<疎外>であるが,<疎外>される所与は何かということが問題にされるとき,記号のレベルの問題が生ずる。 例えば<知覚>の場合なら,"刺激" として感覚器官で受容──これも,所与の<疎外>の一段階であるが──したものが,<疎外>される当のものである。 しかし,<思考>という認識の局面で<疎外>されるのは,既に(<概念>として) 記号としてあるものである。 このように,所与の<疎外>としての認識の後には,記号のヒエラルキーが出来上っていくことになる。 "認識" については,先ず,対象化の結果から事後確認されるところの認識と,進行形の認識の二つの形に分けて考えていくことができる。 前者では,"認識","(認識)形式","対象" というコトバが "認識とは形式をもつ認識に他ならない","認識の結果である対象を通して反照的に捉えられたのが認識形式",という具合につながるが,後者では,"形式が試みられる出来事としての認識","所与に形式が投企され所与がこの形式に(内容となって) 収まることで対象が起こる",というようにつながる。 即ち,後者の場合,<形式>は(認識の結果的な型としてではなく) 所与に投企されるものとして実体化されるのであるが,認識を機能的に記述するためには,このような捉え方の方が都合がよい。 <形式>については,それこそが記号(的存在) の<意味>なのだという点が重要である。 二つの記号は,<形式>が同じであれば同じ<意味>のものである。 認識は,通常,新しい<意味>を産み出す "創造" ではなく,既成の<形式>を認識の所与に投企して既成の<意味>をそこに見出すという形で成立している。 ("パターン認識" という概念に移して言えば,既成のパターンに則る "パターン認識" が通常のものだということである。) 既成の<形式>は,"歴史的遺産" としてある。 これの価値即ち存在理由は "実用性" (情況に依存した意味での) であるが,一方で,個人の認識を束縛するものとなっている。 記号的存在は所与に<形式>が投企されて起こったものであり,<形式>がこの存在の<意味>となっているが,それの表象が<表現>=<疎外>しているものも,──<内容>ではなくて──正にこの<形式>=<意味>の方である(註)。 <形式>が<対象>として<疎外>され,コミュニケートされる場合 (これは<形式>の<表現>の間題である) を一般的に考えてみると,先ず,第一階の<表現>=<疎外>として,<形式>の "把握" ──主観的な表象を伴う──がある。 (把握された "形式" はもとの<形式>の<疎外>態である。) そして,第二階の<表現>=<疎外>として,把握された "形式" が,コミュニケーションにのる(客観的) 表象へと "表現" される。 表象は,コミュニケーションの用を足すことが本義である。 したがって,同一のもののコミュニケーションにしても,スタイルに選択の余地が出てくる。 そしてその最も簡潔なスタイルが "名(前)" である。
1-2 知識の様相 (1) 知識把持の様相 知識には様々な局面がある。 しかしそれらは一応,表象を以って知識の存在が示されている局面,意味が問題になっている局面,認識のプロセスで使用されている局面という三つのカテゴリーで以って把えることが出来よう。 いま,この三つの局面をそれぞれ,"表象","意味",そして "道具性" の局面と称することにする。 一方,知識把握という点を問題にするとき,所謂 "深層と表層" という指標が考えられることになる。 これについてカテゴリーを導入することは難しいが,例えば,"カラダで覚える","イメージが持たれる","コトバの丸覚え" といったコトバで表現されるような知識把握のカテゴリーは,"深層と表層" の一応の表現にはなるであろう。 これらをそれぞれ,"身体","イメージ","即表象" のレベルの知識把握と称することにする。 以上,知識の局面と知識把握のレベルのそれぞれについて,指標となる三つのカテゴリーを導入したわけであるが,ここで,この二組の指標群をそれぞれ行ベクトルと列ベクトルに見立てて形式的に (3×3) 行列をつくり・これによって知識把持の様相を表現することを考えてみよう。 即ち,知識把持の様相が 3×3=9 個の項目(形式的に作っているので意味づけの困難なものもあるが) に記されたことがらで表現されたと見なそうというわけである。 これは確かに極めて大雑把なやり方であるが,知識分析を本格的に展開することはここでの本意ではないし,また実際,教材としての知識を大枠で考察していくという本論文の目的のためには,この枠組でも十分である。
(2) 意味と現象 知識の<意味>──身体,イメージ,あるいは即表象のレベルで捉えられた──は,知識が使われているコンテクストとして現象する。 かかるコンテクストは,知識の言わば "外延" である。 あるコンテクストに知識を現わすことが可能かどうかは,知識の<意味>に立ち返って判断されることである。 但し,知識の<意味>に立ち返るということでは,<意味>の意識対象化は必要条件ではない。 実際,<意味>の把握が身体レベルのものであれば,当然,意識に対する<意味>の明示化はないわけである。 しかし何れにしても,ここで肝心なのは,知識を或るコンテクストに現わすとき,知識のこの使用の背後には本来知識の<意味>の把握が有るということである。 但し,逆は成立たない。 即ち,知識の使用法が知識の<意味>から自ずと生成されるというようにはならない。 実際,知識の使用法のそれぞれは,文化遺産的な意味合いをもつものなのである。 (§1-5参照。) ある知識の現象そのものについての知識というのも,また,起こり得る。 かかる知識は,現象の個々に向かう知識と,現象の構造を対象化してそれに向かう知識──これの場合は,ある知識についての "構文法" が,内容である──の二つに区別できる。 なお,このような知識が起こるために,<できる>("問題が解ける) と<わかる>("解く手順の意味がわかる" ) の区別が生ずることになる。 1-3 知識と<世界> 所与は<世界>として<疎外>=<表現>される。 そして知識の中身は,この<疎外>の形式,および<疎外>態としての記号的存在=<世界>内存在である。 特に,如何なる知識も<世界>形成に関わっているわけであり,となると,知識の選択は,<世界>の選択という意味を担うことになる。 そしてここから,知識の価値の問題が生ずることになる。 <世界>に対する価値判断は,良質か否か,好きか嫌いか,で述べられる。 前者では価値──但し,本来,相対性として──に対する客観的判断が問題となり,後者では価値の取捨における個人的意志が問題となっている。 観察されるところでは,二つの判断は,個人の内でも互いに独立しており,しばしば衝突する。 また,この衝突が他者との間のものになると,例えば強制と自由意志の矛盾の問題とか,あるいは教育上のイデオロギーの問題へと展開していくことになる。 1-4 学習経験 知識学習のそれぞれは,付加された学習経験に他ならない。 何故なら,学習主体のそれ以前の経験の総体は,どの知識学習をも "付加されたもの" と規定してしまうような一個の "学習経験" としての身分をもつからである。 (知識の方は,既得の知識の体系の弁証法的 "発展" 的解消も伴うから,単純に "付加" というコトバは使えない。 ) 実際,如何なる(学習) 経験も,それ以前の経験総体の結果としての能力体系を基盤として前提する。 そこでこの過程の始まるところは,学習的経験と呼べるようなものが初めて起こるところでなければならない。 したがって,この過程は出生と同時に始まる──否,胎内学習というものが今日確認されている以上,それは出生前に溯ることになる。 "学習" を語ることは,かくして,学習の付加を語ることである。 "学習レディネス" の問題は,このような観点に立ったとき,本質的となる。 獲得される知識の態様の如何を決定するのは,学習経験である。 したがって,前節で述べた知識把握における身体,イメージ,即表象のレベルも,学習経験に即して理解されねばならない。 例えば,知識をイメージないし身体レベルで確実なものにするためには,主体的な探究 的作業や訓練(discipline) といった形の学習経験が必要になる。 これに対して,即表象レベルの知識把握のみに向かっている学習が "暗記" である。 なお,始めは意識的に対処しなければならなかった知識でも,習慣的に使用していくことで "当り前" になっていく。 これは,かかる学習経験を通して知識が身体レベルに "発展" したことを意味する。 1-5知識活用 一つの知識に対し,それを含んだコンテクストを追っていけるということと,逆にそれを含む有意義なコンテクストを自ら作っていけるということとは,知識理解ということでは別のレベルにある。 後者においては知識は認識の道具としてある。 知識xの道具性の局面は,xの既知の或る部分的知識x1 から推理されるものであるとしても──その推理は事後確認的に得られていると見るべきで──,結局はx1 とは別のまた一つの (文化遺産としての) 知識として知られるものである。 つまり,それは,知識x1 が使用されるコンテクストについての知識として知られる。 かかる知識の獲得では,"模倣" ──即ち,知識x1 を道具として使用する仕方の模倣──は本質的である。 実際,模倣を繰り返していく中で,知識x1 が道具として機能するコンテクストが知識として知られ,やがて知識x1 を自ら発展的に道具として使用できるようになっていく。 このように,知識に関しては,《一つの知識x1 に対し,x1 の道具としての機能に関する知識は別のもう一つの知識であり,他方両者はある知識xの部分として位置づけられる》という構造が捉えられる。 この構造がしっかりと押えられていなければ,"活きて働く知識"(註) の指導はおぽつかない。 子どもが知識を使えないとすれば,その第一の原因は,知識を使えるようにする指導の不徹底さである。 知識の道具としての局面の理解はまた,知識の意味論的理解へとフィードバックして,知識理解を深化させる。 抑々,知識の<意味>とは,発生的には知識の道具性の<表現>=<疎外>態に他ならない。 ただ,一つの道具として頻繁に使用されるとき,この道具的機能は "当り前" となって次第に意識に対して顕在的でなくなるのである。
1-6 知識批判 知識は,認識形式をそれの本質としているために,あくまでも暫定的なものであり,この意味で,批判と "解体" のダイアレクティックから自由ではない。 したがって,今日的な教育的理念からすると,知識獲得の姿としては,知識が学習者の内で当り前のものになっていくようなのが理想とはならない。 知識に関する<暫定的>という留保は,知識に対する認識から欠落されるべきでない。 知識は,経験的,歴史的に検証された一個の有用性として,しかし同時に (このようにあくまで経験,歴史に依存した有用性ということで) 限界をもったものとして,批判的に取り入れていくというのでなければならない。 将来一層重要視されるべきであるとされる批判精神,<創造性>といったものを保証するのは,正に,知識に対するこのような取り組み方なのであるから。 ここで,このことに関連する問題として,所謂 "アタマの固さ・柔らかさ" ということについて触れてみたい。 "アタマが固い" とは,認識形式が固定している状態,即ちカテゴリーが固定している状態である。 これの反対のコトバの "アタマが柔らかい" の意味としては,二通り考えることができる。 その第一のものは,"ノンカテゴリカル" という意味である。 (但し,所与に既成のカテゴリー乃至パターンを見出そうとし,また,既成のカテゴリー乃至パターンを所与に投企してこれに所与をあて嵌めようとするカテゴリー態度のことを,"カテゴリー性" ということにして。) 幼児はこれの体現者である。 自ら獲得したカテゴリーに逆に呪縛されているのがオトナの状態であるのに対し,幼児のオトナのカテゴリーを扱う仕方は全く奔放である。 "アタマが柔らかい" の第二の意味は,乗り超えられ易い形でカテゴリーが所有されているということである。 カテゴリーはカテゴリーを以ってして超えられるのみであるが,未来のカテゴリーに対して場所を明け渡すことが常に準備されているというのが,ここでの "柔らかさ" である。 それはカテゴリー保持の在り方──状況の変化に柔軟に対処することを可能にする特質としての──であって,ノンカテゴリカルということとは違う。 (ノンカテゴリカルとはあくまでも<退行>の状態である──自己変革の契機が含まれているにしても。 ) そして,このカテゴリー保持の在り方になるのが,先に述べた "知識の批判的な取り込み" なのである。 II 数学的知識 2-1 数学的知識の身分 数学的知識については,他の知識との違いがとりわけ強調されて述べられることが多い。 それは "具体的と抽象的" という枠組で述べられることもあるが,これでは数学的知識を特徴づけることは出来ない。 また,数学的知識の "規約性" とか,経験事象に対する(形式的)自律性ということも強調されるが,知識一般が,その本性から言って,もともと規約的で,経験事象に対して自律的という面をもっているのである。 実際,そうでなければ<知識>の存在する意味がない。 <知識>とは,正に,経験事象の個別性に翻弄されないためのものたのだから。 また,数学的知識が (<解釈>を本当に余分のものとするという意味で) 絶対的に規約的ないし自律的ということであれば,確かに,これを特別の知識として主張もできようが,現実の数学的知識はこのように特徴づけられるようなものとしては存在していない。 絶対的規約性ないし自律性は,方法論的理念の中に在るのみである。 かくして,数学的知識の "規約性" とか "自律性" ということも,程度の問題としてしか,あるいは方法の特殊性の問題としてしか,扱えないことになる。 数学的知識の他の知識に対する特殊性は,知識としての<質>にではなく──実際,知識の<質>は同じで,認識形式であるか記号的存在であるかだ──,やはり(どんな知識についても言えることだが) 知識の守備領域あるいはそれに対応する<世界>の特殊性以上のものではない。 そしてまた,数学的知識が如何なる特殊知識かという問題からは,数学的知識の位置づけ及び展開の方法論に関する志向・意志の問題──これは言わばメタ数学的知識の問題となる──は区別されなければならない。 例えば,"数学とは,何について論じているのかがさっばりわからず,また論じていることが正しいかどうかも,まったくわからたいといった学問のことである" (B.A.Russell) という言い方もあるが,数学的知識に対する表面的な位置づけ・規定がどめようになされようともそれとは無関係に,数学的知識の現実的意味というのは有るわけである。 (幾何学の知識は,事象を幾何学的形象に<表現>=<疎外>する認識の道具としての意味をもつという具合に。 ) 他方,数学的知識は,メタ数学的知識で照射されたときには,別の意識対象に変わっている。 このことが認識されないで,数学的知識の二種の異なる相が混渚して見られ,かつこの混乱から醸される雰囲気が楽しまれるとき,非本質的な "数学的知識は特別" 論が起こることになる。 2-2数学的知識の "実用性" 算数・数学科の存在することを,それの扱う知識の "実用性" ──即ち,"日常生活に役立つ" ということ──を以って理由づけようとする意見は,寧ろ少ない。 また,今日の算数・数学教育に対しての否定的な意見には,必ずと言ってよい程,数学的知識の "非実用性" への指摘が含まれている。 例えば,"日常生活を営む上で必要な算数・数学的知識は,買い物のときに使う加減計算とあと少し",というようなことが言われるわけである。 (尤も,言い回しのパターンはこれだけだと言ってもよい。) しかし,"日常生活に役立つ" とは抑々どういうことか。 数学的知識の "非実用性" を言い出す前に,このことが先ず腰を据えて考えられるべきである。 "日常生活" とは,あくまでも個人の "日常生活" であり,これは個人の(日常的)<世界>のことに他ならない。 そして個人の(日常的)<世界>の実体は<幻想>= "妄想" である。 そしてこの<世界>=<幻想>= "妄想" は,個人のアイデンティティーそのもの,あるいはこれを媒介するものであり,したがって,意識はされていなくても,各人の最も大事にしているところのものなのである。 "妄想" ──但しそれは個人のアイデンティティーの重みを担っている──が "日常生活" そのものである以上,これの構成要素となうているものはすべて個人にとって "役に立っている" と見なされるべきである。 "日常生活で役に立つ" とは,"妄想" としての "日常生活" の構成要素になることである。 そして,"日常生活で役立つ" ということをこのように理解するとき,算数・数学科の内容が日常生活で役に立っているかどうかの問題は,簡単に答えを出せるようなものではない筈である。 算数・数学科の内容が日常生活では無用であると判断されるのは,言わば可視領域外にあるものに思いを致そうとしないからであり,またそのような観点そのものを持ち得ていないからである。 筆者は,算数・数学科の内容が,個人の<世界>の構成因となるという意味で,"日常生活に役立っている" と見る。 実際,学校を出てから例えば球の体積の公式とか微分計算を使うことはなくとも,そのようなものがあることを知っているかいないかで,その個人の<世界>は自ずと違ってこよう。 (尤も,どのように違うかを明らかにすることは難しい問題であるが。) 算数・数学教育の第一義は "<世界>形成" というところにある。 その点,"思考力陶冶" は第二義的なものである。 また,焦って "応用" や "数学的モデル化" を課題としてもち出してくるのも,浅薄な実用主義というべきで,いただけない。 2-3 数学学習と<世界> 算数・数学科の内容は "日常生活に役立っている" 筈だということを前節では述べた。 しかし,このことが算数・数学の学習を子ども総てに課す理由になるわけではない。 前節で述べたことは,どんな知識についても,それがあるとないとでは "日常生活" に違いが生じてくるということであり,知識の価値ということについては些かも言及してはいないからである。 学校教育は,<授業>という形態をとることで,子どもを時間的にも空間的にも束縛している。 そしてこの束縛は,子どもが他の生活形態をとる機会を潰している。 かかる潰しは,本来,子どもの自由意志で選択される生活形態よりも授業の方が (確率的には) はるかに価値ある生活形態となるというのがオトナの共通認識としてあるからこそ,受容されているのである。 (大学の授業が強制的でないのは,生活形態に対する個人の選択意志が尊重されているからである。) 特に,算数・数学科が受容されている理由は,本来,それの扱っている知識がもたらすことになる<世界>というものに,相対的に大きな価値が認められているというところにある他ない。 そこで,算数・数学科の存在に対しての否定的な観点として意味がある (有効である) のは,"日常生活における非実用性" という観点ではなく,"<世界>の押しつけ" という観点である。 実際,授業を強制的に課す形の算数・数学教育では,《この<世界>は要らない》という意見はとり上げられない。 (要らなくとも,授業には付き合わなくてはならないのだから。) では,《この<世界>は要らない》としてしまう知性はダメなのかというと,断じてそんなことはないのである。 算数・数学教育を学校教育という枠組で考えていくとき,(凡ての<既成>が相対化され不確定化されていく) 未来を射程におく場合に根本的な問題となるのは,《この<世界>は要らない》とする立場を積極的に受容しそしてこれに制度的に対応していくのかどうか,ということである。 数学教育界においてこれまでは,《この<世界>は要らない》という子どもの反応はまともに取り上げられたことがなかった。 どのようにすれば子どもに算数・数学科の内容を解らせることができるのかということや,解らせることの意義といったことの議論に終始し,解ることを課すことが抑々必要なのかどうかというラディカルな問題提起は起こって来なかった。 尤もこれは理由のないことではない。 それを取り上げれば学校教育という前提そのものが問われることになるし,第一,これまでの教育的情況は,概して,この前提が問われねばならないような緊迫したものではなかった。 しかし,今日情況は変わってきている。 勿論,社会人に必須な算数・数学的知識というものは考えられる。 また,どのようなものであるか初めから知らないものを取捨選択することはできない。 したがって,義務教育としての算数・数学教育は当然残る。 問題は,子どもが学習のどのレベルまで進んだときに,算数・数学的知識が与える<世界>のとるとらないを選ばせるかである。 また,選ばせるからには,その段階において開けている筈の<世界>を,実際に全き姿で子どもに示せていることが必要である。 ここに,その<世界>とはどのようなものであるべきかという問題,そしてこれを与えることができるための教師の知的レベルという問題が生じることになる。 算数・数学教育の欠陥を現実主義的に補綴する一方で,これらの問題に直接取り組んでいくことが,時代を先取りする意味で必要になろう。 選択の段階において《この<世界>は要らない》とする拒絶の様相は,言うまでもなく,一様ではない。 先ず,<価値>に拘るという様相があろう。 それには,《この<世界>は価値がない》とする価値の絶対的否定──但し,実際にあるというのでなく論理的には可能な反応として──と,《この<世界>が押しつけられていなければ,これの獲得のための労力を振り替えることで得られたであろう別の<世界>の方により大きな価値がある》とする価値の比較判断とが,考えられる。 そして,それぞれの場合について,かかる判断を一般に妥当とみなす立場と,《自分にとっては》という留保づきのものとする立場とを分けることができる。 また,好悪の次元の反応もある。 即ち,自分の感性もしくは体質にこの<世界>は合わないとする認識である。 そしてもう一つ,算数・数学的知識が与えるであろう<世界>を価値あるものとしながらも,自分はこの<世界>を獲得する能力を持っていないとする判断形態が考えられる。 勿論,これらの様相は別個のものとして取り出せるわけではない。 ここではあくまで観点として述べただけである。 選択において拒絶する場合のかかる認識・判断は,本来,全く主観的で不安定なものである。 実際,指導の仕方次第で,算数・数学的知識の<世界>に対する感じ方・見方は違ってくる。 したがって,子どもの《ノー》を尊重することを考えるにしても,問題は言う程に単純ではない。 子どもの判断形式を操作する作為として算数・数学指導を捉えた上で,その作為の<節度>というものを基準化する必要があるし,しかもこれが言葉で述べられるようなものではないからである。 III "思考力陶冶" と知識 3-1 "思考力陶冶" の理念の問題点 はじめにも触れたが,算数・数学科の意義を問われれば一般能カ──内容フリーな能力という意味で──として考えられた "思考力" の陶冶を挙げるという傾向は,今日でも引き続き顕著である。 実際,従来から文部省学習指導要領での "算数科の目標" は,数学的知識の教授と "思考力" ──但し,志向,態度の局面も含めて──陶冶の二本立ての形で述べられてきており "思考力陶冶" の発想は,現実に,この "算数科の目標" を権威としてそれに拠りかかること ができてきた。 しかし,今日,数学学習の理由づけとしての "思考力陶冶" は,現在の教育的状況下での算数・数学科の存在理由という点と,"思考力陶冶" の発想の学問的レベルでの規定という点の二つにおいて,根本的に問い直される段階に来ていると思われる。 第一点は,教育の理念そのものからして既にタテマエ論でしかなくなっている──少なくともなりつつある──現在の状況に関することである。 即ち,今日数学の教授/学習のホンネは能力評価(→選別) がゴールになっているところの<競争>にあると言ってよい。 数学は,ホンネの部分では競争のための素材である。 (したがってまた,この意味では,別に数学でなくても他のものでもいいことになる(註)。) 現実問題として,このホンネを抱き込んだままで "思考力陶冶" の理念を数学教育の実践の中で全うできるのかどうか。 このことが今後益々深刻に問われることになるであろう。 第二点の問題は,要するに,"思考力" とは何かということである。 或いは,数学教育を通してその育成が考えられているところの "思考力" とは抑々何かということである。 これが答えられていない間は,"思考力" 栖養のために数学教育は何をするのか (何が出来るのか) という問題──即ち "思考力陶冶" の問題──は考えようがないわけである。 "思考力" を,単純に,"思考する力" として考えることは出来ない。 何故なら,このようなものが実体としてあるのかどうかということ自体が問題なのだから。 これは,"思考する力" のサブカテゴリーである "帰納する力","モデル化する力" といったものについても,そのまま言えることである。 "思考する力" の発想の裏には,"一個のパフォーマンスに一個の能力" という単純な因果の図式がある。 かかる図式は,既に,古典的な能力心理学が批判される中で退けられたところのものである。 即ち,"一般的" というコトバで "内容フリー" を指すことにすれば,既成の概念で対象化されるようなパフォーマンスは結局一般的パフォーマンスの概念に他ならないが,これに対する説明概念として一般的能力を発想するのが能力心理学である。 一般的能力は,一般的パフォーマンスをそれの<結果>とするところの<原因>として措定される。 そこで,非常に単純化して言えば,"走る" というパフォーマンスに対しては "走る能力" が,"歌う" というパフォーマンスに対しては "歌う能力" が,それぞれ在るということになる。 一般的能力そのものにアプローチするには,身体のメカニズムのコトバを使うより他はない。 そこで,このような直接的なアプローチではないとすれば,あとは一般的能力の<表現>=<疎外>の問題が残るだけである。 上述の能力心理学流の<表現>は,パフォーマンスの既成概念をそのまま枠組として流用するもので,不毛である。 筆者はそこで先ず,ある種の学習行動を射程に置く<レディネス>とか,認知・行動の<形式>──あるいは<機能>としてのそれ──として一般的能力を<表現>することにする。 しかし,このような<表現>では,一般的能力としての "思考力" の陶冶に輪郭を与えることはまだ無理である。 つまりこのままでは,"思考力陶冶" の具体的プログラムは依然立てようがない。 そこで,一般的能力の<疎外>であるレディネスや形式を更に一段<疎外>して,知識を一般的能力の<表現>としよう。 知識だけが問題だということであれば,指導のプログラムは立つ。 というより寧ろ,指導できるのは知識だけなのだ。 所謂 "能力" への知識の質的変容というその先のプロセスに対しては,指導という人為は直接にはタッチできないのである。
3-2 能力と知識 "思考力陶冶" に輪郭を与えるために── "思考力" を知識の形に<疎外>した上で── "思考力陶冶" を知識指導として捉え直す,ということを述べてきたが,ここで問題になるのはどのような知識かということである。 知識の資格については簡単に述べることが出来る。 即ち,知識へと<疎外>されたもとの "思考力" へこの知識の学習を通して到達できること,というのがそれである。 難しいのは,かかる知識を特定することである。 この点で色々な立場が出て来るであろう。 例えば "考え方" について言えば,"考え方" は個々の問題に対処していく中で形成されていく他ないと見るとき,射程に置く知識は個々の問題解決に関するものである。 また,"考え方" の枠組そのものを明示しなければ意味がないと見るとき,この枠組そのものについての知識に中心的な位置が与えられることになる。 一般的能力を知識に<疎外>する以前の問題として,一般的能力を把握することが先ず在る。 それは所謂 "能力分析" という形でなされるわけであるが,但し,この "能力分析" を能力そのものを捉える方法と見なすことは出来ない。 "能力分析" の発想は,つぎのことが前提になければ意味をなさない。 即ち,能力とは行為 (認知ないし行動) する能力に他ならないが,それはカテゴリカルだということである。 能力がカテゴリカルであってこそ,"能力分析" の発想が成立つことになる。 能力をカテゴリカルなものとしてしまうことは,能力に対する第一階の<疎外>である。 そしてこのとき,能力は,用意されたカテゴリーによって<表現>される。 ところで,能力のかかる<疎外>=<表現>は,前節でも述べたが,歴史的には行為の概念を用いて為されてきた。 即ち,"‥‥する(能)力" が,この表現の形式である。 ここで起こっていることは,行為 についての既成概念をそのまま固定し,概念としての各行為に対しこれを<因果>の<果>とするような<因>として一つの "能力" を概念化するというととであった。 パフォーマンスの概念枠組を能力の概念枠組として読み替えただけなのだから,ここでは能力についての固有の概念は何も生み出されていないわけである。 "……する(能)力" の発想は,能力の<表現>=<疎外>態を能力の実体と取り違えてしまったところに誤謬がある。 能力実体論は身体のメカニズムの問題として起こるしかない。 これに対し,"能力分析" で扱われる "能力" は,実体的な能力ではなく,能力の<疎外>態なのである。 特に旧来の観想的な "能力分析" の実質は,能力の<疎外>概念として流用されているパフォーマンス概念の分析であり,概念としての各パフォーマンスの条件,プロセス,現象の様相を明らかにする点にある。 そしてこれは,能力に対する第二階の<疎外>ということができる。 "能力分析" で捉えられているものは,このように,能力の実体ではなく,能力の<疎外>態であり,実際のところそれは,能力<疎外>の形式を表わす知識である。 したがって,"能力分析" そのものも,能力を知識へと<疎外>する営みであるわけだ。 能力の<疎外>態としての知識については,所謂 "内包" と"外延" の関係に立つ二種類が形式的に区別できる。 前者は,ある種の知識群を一つのカテゴリーのものとして括る形式についての知識であり,そしてこのときカテゴリーの要素となっている知識が後者である。 一般的能力が一般的パフォーマンスの概念およびそれに関する知識へと<疎外>される場合では,形式としてのパフォーマンスについての知識と,この形式をもつパフォーマンスについての知識が,それぞれ応ずる。 (例えば,"推理" という形式についての知識と,"推理" のカテゴリーに入る "演繹","帰納" 等の概念についての知識である。) いま,"思考力" をこのような形で<疎外>することを考えよう。 このとき,"思考力陶冶" の<疎外>された形としての知識指導には,形 式としての思考パフォーマンスに関するものと,この形式をもつパフォーマンスに関するものの二種類があることになる。 ここでは,前者を "(思考)形式指導" と称することにしよう。 形式指導は,形式を示すだけでは成立しない。 その形式がどのようなパフォーマンスの中にどのように認められるかということが,当然フォローされねばならないからである。 ところでここで注意すべきは,形式を或るパフォーマンスに認めるようになったということは,そのパフォーマンスに対する知識の一段の深化を意味するということである。 実際,(概念としての) パフォーマンスに新たに一つの形式を認めることは,(概念としての) パフォーマンスの "内包" を一段膨らますことと同じである。 このように,形式の学習は,何がしかのパフォーマンスについての学習を必然的に伴うものなのである。 3-3 "問題解決" 論 思考形式でわれわれが基本的且つ重要と考えるものは,一応,内容フリーに考えられた<問題解決>のコンテクストの中に位置づけられるように思われる。 したがって,思考形式の指導は,<問題解決>指導に埋め込まれる。 但しこのとき,<問題解決>指導の概念は,従来から在る "問題解決指導" の概念とは違ってくる。 この違いを論ずる上で,先ず,<問題解決>は概念であり,概念としてのそれは,パフォーマンスの現象(実在) を "問題解決" として<疎外>=<表現>する形式であるという点に留意しよう。 <問題解決>の概念を分析したり構成したりする中でわれわれは諸形式を概念化し,それらを以って "問題解決" と捉えられた現象(実在) を様々に切り取り枠づけていくわけであるが,現象(実在) の方にこれに対応する切れ目や分節があるわけではない。 〔確かに,このような切り取り・枠づけをある程度有効なものとしてしまう契機が現象(実在) の方にもある筈だというようには考えられる。 しかし,このことは,切り取り・枠づけの構造がそのまま現象(実在) の方にあるということとは違う。) 問題解決論の本義は,"問題解決" として現象(実在) を<表現>する形式(概念) を整理するところにある他ないのであるが,概念は実在ではないという基本的なところが十分押えられていないとき,概念と実在をほしいままに短絡させる不毛の問題解決論が問題解決能力論として起こることになる。 そしてそれに乗り掛かって,"問題解決能力育成のための指導" なるものが発想されてくる。 所謂 "Mathematical Problem-Solving" の理念はこれであって,今日的な見解を要約すれば,《問題解決ストラティジーを子どもに示し,それを用いて問題解決する経験を積ませれば,問題解決能力が子どものうちに育成されていく》ということになる。 しかし,ここに言う "問題解決ストラティジー" の実体は,上に述べたところの,"問題解決" として現象を<表現>=<疎外>する認識形式である。 そしてそれは,概念として知られ,行動へ向かう構えの在り様に対する知識となるだけのものである。 "問題解決ストラティジー" をもっていたところで,現実の問題に対して実際に切り込んでいけるわけではない。 問題解決の各局面の入口で言わば身を潔めるのに役立つというだけのことである。 現実の問題に切り込むには,更に,問題の内容に直接絡んでいける道具が要る。 "問題解決能力" というコトバからは,現実の問題に切り込んでいける能力がイメージされて然るべきである。 高揚はさせるが実際は問題の前に佇ませるだけの心的ポテンシャルを "問題解決能力" と称するわけにはいかない。 しかし一方,"問題解決" として<表現>する形式を知識としてもつことの意味は大きい。 自らの問題解決行動をこの知識が与える枠組にあてはめていくことで,行為に対して自覚的になり,そのことによって無駄を少なくしたり,見通しをよくしたりすることができるからである。 問題解決指導とは,ここに射程をおくものとして,そしてその限りのものとして,把えられるべきである。 このとき,それは,"問題解決" を<表現>する形式──知識として──を 指導内容に掲げるものとして,明確な形をもつことになる。 そしてこれは,思考形式の指導をその中に埋め込むものとしてはじめに考えた<問題解決>指導のことにほかならない。 IV 知識の教授/学習 4-1 知識教授の理由 認識において<形式>と<意味>は同義である。 特に,<意味>が既成(社会的) であることには<形式>の既成(社会的) であることが応ずる。 そして,既成の形式を用いるということが,認識が共有できるための現実的な条件になっている。 このためにまた,既成の形式は必然的なものとしてある。 但し,形式が必然的であるということには,"普遍性" の含意はない,実際・形式が社会的であるということは,現実に,形式が社会に対して依存的であることの意味になっている。 つまり,形式に対しての《社会的でなければならない》という条件が,同時に,形式の必然性と相対性の条件になっているのである。 形式が相対的であるということは,個人においては,形式が学習の対象として──したがって,知識の身分で──関わってくるという意味になる。 そしてこのように,知識の身分で個人に外在するものとして認識形式が位置づけられるとき,子どもによるそれの獲得を人為的な仕方で実現させる,また,意識に対するそれの<表現>として洗練されたものを与える,という発想──即ち,知識指導の発想──が必然のものになる。 尤も,知識としては捉え難い形式はある。 特に,生活において基本的な形式程,そうである。 しかしこのことは,形式が<知識>の概念では捉えきれないということよりは,形式の学習というものが散発的にかつ長い時間をかけて極めて徐々に,したがって特に意識対象化されることなく,為されていくということに,理由をもつと思われる。 つまり,形式が知識として個人に外在するということと,それが意識対象化されることとは,別問題である。 しかも,形式を意識対象へと<表現>=<疎外>する形式も,またその<表現>自体が意識される度合も,ともに個人の(学習) 経験や個人のおかれている状況に依存して決まるものであるから,単純に "知識の意識対象化" ということも言えないわけである。 4-2 教授/学習の様相 獲得される知識の如何は,学習の如何と対応する。 ところで,各知識に対しては,表象・意味・道具性の局面,身体・イメージ・即表象の知識把握レベルを以って,それを構造化することが考えられる (§1-2, (1))。 そこで,知識学習を考察する上で,学習を知識のかかる構造に応じて構造化して考えるということが,一つの方法的な観点となる (§1-4)。 さらにこの観点は,"学習" が "促された学習" となっている "知識の教授/学習" というシチュエーションに対しても,そのまま持ち込むことができる。 但しこの場合,学習行為の "現実主義" 的な側面ということが,§1-4 で触れたことの上に更に考察すべきことがらとなる。 受験体制=点数主義体制下に置かれた数学教育──今日の数学教育がこのようなものとして特徴づけられるかどうかはさて置き──の場合,知識への対応はどうしても表層的なレベルで終始することになり易い。 学習者自身が,このようなやり方を採ることを現実原則としての点数主義によって強制されるからである。 ここでは解法パターンが独り歩きし理解抜きの問題解決が往行する。 とりわけ,理解よりも解き方に向かうことの著しい結果として,子どもによっては数学が "暗記科目" として成立したりする。 知識としての解法パターンは,数学的知識の一現象そのものに対する知識である。 (特に,それは数学的知識の表層的なレベルでの在り方というのとは区別される。 ) したがって,数学的知識に対する意味的な把握がなくとも,同一現象しか問題にならない間は解法パターンの中でそれを使うことができるが,問題の見かけが僅かに変えられたり別の種類の問題になると,手 も足も出なくなる。 そこで,対症療法的に解法パターンをつぎつぎに求めていくというのがこの場合の学習パターンとなる。 但し,知識としての解法パターンが意味がないというのではない。 (実際,そうでないことを §1-5 で述べておいた。) 問題なのは──但し,数学的知識の学習の本来の形というものを考えたとき──,数学的知識を試験問題の解法パターンというコンテクスト込みの形で得ていること,そして知識の意味に真に戻ることなく解法パターンヘの知識を無闇に増殖させるという学習法なのである。 (点数主義体制下での数学的知識への対応法としては,これはこれで合理的な面をもっているのであるが。) この次元で理解された知識を用いての問題解決では,問題を解いているのではなく単に問題に "社交辞令的に対処" しているに過ぎない。 解法パターンという "外交辞令" が始めから用意されているからである。 4-3 "主体性" 算数・数学的知識を学習し活用する主体としての "主体性" を子どもに確立させることは,算数・数学的知識の獲得ということに含まれている算数・数学教育の意義である。 "主体性" とは,<態度・志向>の次元で収まる問題ではない。 それは,やはり構造を持った能力であり,<知識>に裏付けられている。 実際,知的構造としての主体性には,以下に述べる幾つかのレベルが考えられ,態度・志向はそれの一つのレベルであるに過ぎない。 主体性の第一のレベルは,"主体的" であることを評価する<価値意識>のレベルである。 <態度・志向>は,主体性の第二のレベルとしてこれに連なる。 それは即ち,主体的であろうとする態度・志向である。 そして,この二つのレベルを裏付けているものは,"主体性" とはどういうものかという知識,主体的であることの価値についての知識,主体的な態度・志向という概念に対する知識である。 既成のものとしてのこれらの概念は,主体的に対処すべき当の仕事の内容についてはフリーであり,この意味で,一般的な枠組として通用する。 主体性の第三のレベルとしてここで考えようとするものも,やはり内容フリーである。 即ちそれは,<認知・行動>に対する一般的概念枠組についての知識である。 主体的であろうとする意志を枠づけ同時にそれを意識対象化する概念を主体性の第二のレベルに位置づけたのに対して,認知・行動を "主体的" なものとして方向づけ,枠づける概念を,主体性の第三のレベルに位置づけようというわけである。 さて,主体性の最後の場面は現象としての認知・行動のパフォーマンスであるが,主体性の三つのレベルを成り立たせるこれまでの概念は,この認知・行動の形式を規定するだけで,認知・行動の及ぶ対象の<内容>にはタッチしていない。 また,<内容>を自動的に整理していく機能がそれらに有るかというと,言うまでもなく,無い。 したがって,現実的なものとしての "主体性" については,さらに<内容>に依存してくるレベルというものを考えに入れなくてはならない。 これが主体性の第四番目のレベルで,それを裏付けるものは<内容>そのものについての知識である。 但し,知識は知識でも,"主体的" な認知・行動を導くような位相にある知識というのが,ここで問題になるものである。 かくして,"主体性" とは,"主体的であれ!" という掛け声だけで子どものうちにできあがっていくものでも,また,"成長" に従って自然に獲得されていくものでもない,ということになる。 それは何よりも先ず構造的な知識としてあるのだから,もし(個人の偶然的な契機を期待するというのではなくて) 一貫して作為的に指導するとなれば,組織的な知識教授というのが,その指導形態でなければならない。 4-4 "興味" "興味" というコトバは,これまでは,非常に軽い意味で用いられてきている。 それの典型は,ゲーム・パズルの導入で子どもの "興味" を喚起するという発想に見ることができる。 何が典型的かというと,学習対象(知識) から気を実質的にはぐらかすことを子どもをノセる原理とし,そしてこのようにノセることが "興味を喚起する" ということの内容になっているという点で,典型的なのである。 ゲーム・パズルに子どもが興じるのは,競争(相手はときに自分自身である) がおもしろいからである。 実際,ゲーム・パズルのおもしろさの実体は,競争のおもしろさである。 (したがって,ゲーム・パズルが終わったとき残っているものは徒労感のみ,ということにもなる。) かくして,ゲーム・パズルの導入では,学習対象(知識) は競争の素材として性格づけられていることになる。 したがってまた,ゲーム・パズルを通して子どもが学習対象に馴染んでいくにしても──それが教師の狙いであるが,関心の直接及んでいるところは競争であって学習対象ではない。 このことを教師は十分認識しておくべきである。 "興味" の問題は,このような "騙す" と紙一重の "ノセる" という次元で論じられるべきものではない。 知識をはぐらかして示すとき,この限りにおいては知識は "殺されている"。 教育的議論の中では,誤解を生まないために,"興味" というコトバは知識そのものに対する "興味" を意味する場合だけに使われるべきである。 ここで,知識そのものに対する興味とは,知識の開示する<世界>に対する興味である。 このとき,ある知識に対して興味をもたないということは,本来,ネガティヴであることを意味しない。 それは,<世界>選択の一つの意志であるからだ。 この意志は,本来,尊重されるべきである。 教師には,知識の教授と併せて,それの場としての<授業>を成立させるという仕事があるが,授業進行の形態と教授される知識の質とは,別の次元のことがらである。 子どもが授業において "活き活きしている" からといって,良質な知識が教授されていることにはならない。 大多数の子どもがノッてくるということと,素材が本質的な意義をもつということは,無関係である。 子どもをノセるというのは,基本的には──授業進行の形態が知識獲得の様相にも影響するから,"基本的には" と但し書きをつけるのであるが──授業を成立させる上で必要になってくることであり,したがってそれは,教師の都合の問題である。 子どもをノセることは授業の原点ではあるが,しかし教材(知識) の原点ではない。 これは,教材研究の問題としては二義的なものになる。 教材研究の第一義は,言うまでもなく,知識の良質な形を求めるということにある。 授業の演出者・指揮者としての教師の都合を 度外視して言えば,良質な知識に対して直接的に子どもが主体的な学習を行うということが根本的である。 "興味" という概念は,行動の次元でこのような学習へと向かわせる心的な位相として解しておきたい。 このとき,かかる興味に裏付けられた学習は,その本質から言って<遊び>に他ならたい。 実際ここでは,学習は,見返りとなる何かを得るための<仕事>としてあるのではなく,それ自体が志向されるところのものとた:っているからである。 この<遊び>は,先に論じたゲーム・パズルとしての "遊び" とは根本的に異なる。 後者においては,学習において本来志向されるべき知識をはぐらかしつつそれのある局面を "遊び" の素材として用いているだけで,知識そのものが遊びの目的(対象) とはなっていないのである。 V 教材(知識) 研究 5-1 教材研究の領域 "知識ばかりで力が伴わない" とか "知識の詰め込み" といった言い回しがあるように,"知識" は,何かアタマの働きだけに関係しているもののようにイメージされがちである。 しかし,知識とは身体性そのものにまで関わってくるものであって,アタマに "詰め込む" ことのできるのは知識の表層的な部分に過ぎない。 知識は,様々な経験がひろく取り込まれそして統合されたことの結果である。 教材(知識) 研究とは,教授すべき知識がい かなる経験の統合として成立するものであるのかを明らかにした上で,その到達した知見から翻って,子どもに対してそのような経験を人為的に踏ませていく具体的方策を考案していくという作業である。 ここで,知識の表層でしかないものが知識そのもののように理解(誤解) されていれば,"知識をたたき込む" という発想や,これの単なる裏返しとしての "知識をオモシロク教える" という発想が出てくることになる。 知識とは,言うまでもなく,たたき込んだりオモシロク教えたりが単純にできるような薄っぺらなものではない。 実際,このような指導法は直ぐに行き詰まり破綻することになる。 したがって,<知識>なるものへの正しい認識が──本来なら──教材研究が可能になるための必要条件の一つなのだということが,先ず確認されるべきなのである。 "経験" のコトバを用いて言えば,知識とは,端的に,経験の<疎外>である。 そして,<授業>は,所期の知識へと<疎外>される経験を人為的にかつ組織的に引き起こすことが意図されているところのシチュエーションである。 どのような経験が必要でまたそれらがどのように配列されるかは,学習内容たる知識そのものの他に,到達目標とか教授/学習効率,他の学習内容とのバランス等に依存することである。 したがって,《教材研究においては,学習内容の一つ一つに個別的に対応するというのではなく,全体的な視野に立ってこれらの各々を取り上げるという姿勢が肝要》というのが一応原則論として立つ。 しかし,全体的な視野に立てるのは,各内容について一亘り把握し尽くした上でのことであり,それに,最初から現実主義的な対処を考えることは,教材研究を抑々浅薄なものにする。 経験が知識へと<疎外>される形式は,経験の外観からは判断できない。 したがって,子どもの経験を観察し方向づける立場の教師にとっては,子どもの経験を現象としてではなく,あくまで内面化されている経験,即ち内的な経験(註),として捉えていくことが肝要になる。 但し,<教材研究>の領域からは,このような授業方法論・実践論的な問題は外れる。 <教材研究>にとっての問題は,《どのような内的経験か,そしてどのような知識化のプロセスか》という問題である。 そしてこれが或る程度答えられた後で,《所期の内的経験と知識化のプロセスのそれぞれをどのように実現するか》という授業方法論・実践論的問題へと移ることになる。 このような整理をせず何もかも引っ包めて考えていては,明らかになるものも明らかにならない。
5-2 知識分析と教授/学習形態の構想 教材研究は知識分析から出発する。 教授内容が如何なる知識である(べき)かが分析された後,その知識へと<疎外>される当の(内的)経験が特定されていくことになる。 各知識は様々なコンテクストの中にある。 例えば,知識が現在の形へ至った歴史とか,個人の発達史における獲得経緯,あるいはその知識が用いられている社会的・文化的状況といったものが,このようなコンテクストとしてある。 教材研究は,知識研究として,これら様々のコンテクストを考察の対象とするものであり,したがってその守備領域は,本来,無限の広がりをもっている。 かかるコンテクストは,現に在るから考察されねばならないというのではない。 それへの理解を通して知識が初めて理解されるようになるから,考察されるべきたのである。 逆に言えば,知識の把握が問題にされている限りにおいて,その知識のコンテクストが研究対象になる。 その際,どの領域が,そしてどの程度に研究される必要があるかは,当然,知識を捉える観点とか方針に依存してくる。 知識そのものを捉える観点としては,既に,知識の局面ということで表象・意味・道具性の 三つを挙げておいた (§1-2)。 知識の局面に関する観点以外では,例えば,道具としての知識の存在理由・価値という観点が出て来る。 また,学習対象としての難易ということに関係してくる知識の構造という観点も挙げられる。 そして,一応原理的には,観点の如何と,その観点への加重の程度の如何に応じて,知識のどのコンテクストがどの程度に研究されねばならないかが決定されていくわけである。 例えば,指導しようとする数学的知識(アイデア) が初学者にとってどの程度に難しいか,あるいは発想し難いものであるかは,教師にとって把握しにくいところであるが,このヒントを得るための一つの方法として問題の知識を歴史的に考察してみるということが,考えられるであろう(註)。 教授内容の知識に対し,それの意味や機能,価値,構造などがこのような分析から把えられたとき,つぎの仕事は,この知識の把握の様相を身体,イメージ,即表象のレベルで押えていくことである。 この把握がある程度明確なものになっていないと,学習活動の設計に入ることは固より出来ない。 学習活動の設計では,先ず,知識の身体,イメージ,即表象レベルに対応する学習活動が特定される。 つぎに,学習レディネスがどのようなものであるべきか,そしてそれを形成するためにはどうしたらよいか,ということの考察に入る。 そして最後に,所期の学習活動を実現し,コントロールしていく方法が求められることになる。 即ち,授業運用の方法である。 ここで肝心な点は,授業形態は志向されている知識(の態様) に従うということである。 授業形態は目的ではなく手段である。 例えば,"レセ・フェール(Laisser Faire)" の概念にしても,それを授業形態として採ることが学習効果の点で最良となるところの知識が前提になければ,意味はない。
VI 思考形式指導の位置づけの問題 思考形式指導──以下,"形式指導" と略す──の概念は,§3-2 で導入した。 これの特殊性は,知識領域の特殊性である。 したがって,前章で考察した教材研究の一般論は,形式指導に対してもそのまま適用できる。 形式指導が扱う知識は,(思考)形式についての知識とこの形式をもつ(思考)パフォーマンスについての知識である。 例えば,"事象の数学化" という形式と,この形式がそこに見出されるところの "グループ内の支配関係を有向グラフで表示する" というパフォーマンスは,この関係にあるものである。 形式指導については,導入時期の問題,数学的知識(教科内容) の指導との兼ね合いの問題,それに指導に充てる時間の問題等が絡んでくることで,色々な形態が考えられてくる。 導入時期に関しては,学習レディネスが十分になった段階で実施するという考え方と,思考活動に対して自覚的であることを常に促す形で初期の段階から実施するという考え方の二つを対極的位置にあるものとして,挙げることができるであろう。 前者は,概念指導としては,概念の<表象>と<内包>から切り出し,それから既知の知識でこの概念の<外延>となるものを<内包>に照らして捉えさせていく,というやり方である。 したがって,指導の時期は,<内包>の教授を受けとめることのできる知的レベルに子どもが到達した後ということになる。 これに対して後者は,始めから<表象>を示して,<表象>を名にもつ(<範疇>に入る) 知識が出てきたらその都度そのようなものとして教え,同時に,そうであることの理由づけを子どもに受容される形で与える,というやり方である。 概念指導としては,これは<外延>と<内包>を少しずつ充実させていくもので,最初に与えられた<表象>に対してその<意味>を脹らませていくという形になっている。 ここでは,それが何であるかを最初はわからせることができなくとも<表象>を示すことでともかく知識の存在は伝えられるということが,本質的に効いてくる。 実際このとき,<表象>を名とする知識が集められ,これらが事例として見ていかれるということで,<意味>理解は方向性をもち組織的になると同時に効率的になる。 そして最後には<範疇>と<意味>が自ずと得られている,という具合になる。 つぎに,形式指導と数学的知識(教科内容) の指導との兼ね合いをどう考えるかであるが,これに対しては,形式指導として独立させるという考え方と,数学的知識の指導の合間に取り入れるという考え方の二つが,対極的なものとして出てくる。 前者では,形式の概念の各々が主となる。 即ち,かかる概念に対しそれで捉えることのできる事例で指導上適切と思われるものを素材に選び,これをモデルとしてもたせることで概念の<意味>理解へと子どもを導くというのが,この場合の指導の形になる。 特に一つの概念に対し事例を色々な領域からとってきて,それらの比較を通じて理解に近づけるというやり方が,特徴的なものとなろう。 これに対して,《数学的知識(教科内容) の指導の中で,形式の概念をもち出して学習上の認知・行動の概念あるいは現象を整理できる局面が現われたときには,そこを透かさず捉えてこの概念の指導の場に変える》,というのが後者の場合である。 ここで述べたのは,形式指導と教科の内容指導を,二つの知識指導としてどう兼ね合わせるかということについての考え方である。 ところで,形式指導に対する従来の一般的な認識は,形式指導を知識指導として捉えるものではない。 実際,形式= "考え方" の指導と称して今日研究発表されているものが,もし "考え方" 指導であるとするなら,教師が "考え方陶冶" のための学習活動と見なしたものを子どもが確かに実践していれば,"考え方" 指導は成立していることになる。 《子どもは活動し,教師はそれの<解釈>をもっている》というのが,従来の所謂 "考え方" 指導のパターンであり,そこには,《知識指導としての "考え方" 指導》という捉え方はない。 しかし,形式指導の本質は,思考の経験をさせるところにあるのではなく,その先の段階,即ち,経験を<表現>=<疎外>するというところにあるのだ。 経験自体は,如何様にも<表現>され得る。 (例えば,"……の内容の問題を解いた" というのも<表現>の一つである。 ) ところが形式指導の本義は,正に "形式" として経験を<表現>させることなのであり,本質的に文化遺産としてあるその<表現>形式を教えることなのである。 この点で,これまで "考え方" 指導として罷り通ってきたものの多くは,"考え方" 指導の名に価しないものである。 形式指導にどの程度の時間を充てるかという問題は,既に述べた形式指導の導入時期の問題と数学指導との兼ね合いの問題に対してどのような立場をとるかで,その重さが自ずと違ってくる。 例えば,形式指導を別枠で設けるべきとする立場にとっては,カリキュラムの問題とも絡んで,指導時間のことは揺るがせにできない問題である。 以上,(知識指導としての) 形式指導の言わば方法的な枠組を論じてきたわけであるが,形式指導が具体的にどのように組み立てられるべきかという問題に対しては,筆者は答えをもっていない。 安全でまた実際妥当であろう物言いは,上で論じた方法のそれぞれの長所を生かした折衷ということであろう。 しかし,どのように折衷すべきかという形で,問題が残ることになる。 そしてこの問題になると,最早アタマを使って答えをひねくり出すといった段階ではなく,実証的にアプローチしていくのが本道となろう。 ただ,この研究領域は,これ迄全くの手つかずの状態にある。 しかも,ここが打開されていないうちは,形式指導の実践論を切り出すことはできないのである。 結 語 知識とは所有された知識のことに他ならない のであるが,教材研究は正に<所有>という次元で知識を捉えることに始まる。 そして知識は,一貫して,所有される相として考察される。 そこで,"教材研究" を論ずる枠組が問題にされるときには,所有されたものとしての知識の身分の問題,知識把持の様相の問題,(学習)経験の位置づけの問題,知識教授という営為の位置づけの問題,教授/学習形態の問題等が,一連して持ち上がることになる。 本論文ではかかる問題を大枠において捉え,考察してきたわけであるが,これらのうちで基本的なのは,知識の身分と,知識把持の様相についてのものである。 実際,そこで基本概念となるものは,あとの問題を考える上での基本概念となる。 知識の中身は,認識形式ないし記号的存在である。 そこで知識の身分を,端的に,<記号>と言い表わすことができる。 そして,知識が<記号>であるということ,また<世界>を構成するのは記号的存在であるということから,実在に対する知識の独自性,さらに<世界>の独自性の説明がつく。 また,"知識の批判・解体" とか "世界認識" という発想も,理由をもつことになる。 知識把持の様相ということについては,本論文では,知識に関する表象・意味・道具性の三つの局面と,知識把握に関する身体・イメージ・即表象の三つのレベルでそれを捉えることを試みた。 しかしかかるカテゴリーの設定については当然議論のあるところであろうし,また筆者自身,"当座の方便" ということである他ないものとして導入している。 例えば,意味理解はテキストのコピーではないからイメージのレベルを持ち出し,また "訓練(discipline)" や "慣れ" といったことを議論に乗せるためには "身体" を引っ張り出す他ないと思われるからそれのレベルを持ち出す,という具合である。 "数学教材研究" 論を "教材研究" 論から区別される特殊として打出すためには,大枠的な議論で終始しているわけにはいかない。 即ち,数学教材として取り上げられる知識の特殊性を真正面に据えてこれに掛からねばならない。 本論文の場合は,紙数の都合と内容を一貫させる意味から,特殊性の間題には入っていっていない。 ただ,数学教育の文脈の中で論じられる "思考力陶冶" の問題に対しては,ある程度踏み込んでみた。 |