Up 算数教育通信:教材研究とは? 作成: 2012-09-14
更新: 2012-09-14


「算数教育通信:教材研究とは?」 (石川算数 no.41, 1985)


算数教育通信

金沢大助教授宮下英明

    そもそも教材研究は,と考えてみることにします。

    個々の教材研究はともかくとして,<教材研究の考え方>の方は難しくはありません。 教材研究に際しては,《この内容は一体どのような見方・考え方であるのか》という問題意識,これを根本にすえます。 そして,《このような見方・考え方はどのような方法を用いれば子どもに獲得させていくことができるか》という問題意識を加える。 また,並行して,《このような見方・考え方にはどのような意味・.価値があるのか》,《このような見方・考え方は,他の見方・考え方とどのように関連しているのか;他の見方・考え方に対してどのように位置づくのか》という問題意識を加えます。 教材研究に対する考え方としては,これで全く十分でしょう.

    さて,教材研究の考え方自体は難しくないが,教材研究の実践は至難である。 これが,つぎに言いたいことです。 教材研究の考え方にそって教材研究を進めるこれは,あくまでも意志 (志向) です。 できる・できないは別問題です。 教材とは,見方・考え方であると言いました。 しかし・見方・考え方とは,どういうことなのか。 ここの "方" は,"型" と読んだ方がよい。 《見えていないもの・考えていないものを見ようとする・考えようとする》という意味合いがあります。 見えていないものを見る・考えていないものを考えるというのですから,これはしょせん好き勝手(恣意) の出来事です。しかし一方,教材の形で権威づけられている見方・考え方ですから,勝手は勝手でも,大人の勝手であるわけです。

    大人の勝手は普通 "行儀作法" ということばで呼ばれています。 したがって,個々の教材は,大人の一つの行儀作法であるということになります。 ただし,算数科が算数科であるのは,それが算数的な行儀作法を扱っているからである。

    子どもに大人の行犠を教えるにはどうするか。 従うのは自発的であると子どもに思わせるようにして従わせてしまうのが,最善のやり方です。 見方・考え方 (行儀作法) のよさ・すばらしさを感得させる場面を必ず指導の中に取り込むようにしているのは,このためです。

    さて,算数科の中心的な楓念は,言うまでもなく数である。 そして厄介なことに,これは<無いもの>の筆頭格である。 例えば,"これが四角形だ" と言うようには "これが5だ" と言うことはできない。

    数よりはるか{こ具体的と思われる量にしても,<無いもの>である。 実際,差し当たり有るのは,量を担うものとして考えている個々の物である。 われわれは,走っている自動車,歩いている人,落ちてくる雨,これらにひとしく "遠さ" を見る。 現象としては全く異なったこれらのものに同一の<無いもの>を見るということをしている。 気がふれていると言われても,仕様がない。

    さて,そもそもが算数科の内容は難しいのだということを確認して,わたしはこの場で,堅実な教材研究というものを改めて提唱したいのである.

    先に述ぺたが,わたしは算数教育を,高々大人の行儀の一領域を指導する──但し,大人の行儀に過ぎないのだということも併せて知らせていく──営為と考えることにしている。 読者は恐らくこのような考え方をひどく偏狭なものと決めつけるであろう。 確かに偏狭であるが,つぎのようなことがあるのでわたしはこの偏狭さを通すことにしている。

    先ず,算数科の分担する大人の行儀なるものは,われわれ自身余り分かっていないのである。 実際それは,教材研究を積み間違いを繰り返していく中で,こんなものであったのかとやっと分かってくるといった類のものなのである。 そして,われわれ自身余り分かっていない所に子どもへの指導があり得ないのは,道理である.

    つぎに,教材研究が (少なくとも,目につくところでは) 最近余り流行らないと,いう事実。 目につくのは,やはり "数学的考え方","問題欝決" ないし指導法一般である。 これらに共通しているのは,教材 (知識) の個別性の捨象である。 言い換えると,そこでは教材は変数のように扱われる。

    さらに,"数学的考え方" と "問題解決" の二つについて言えば,(《知識獲得による能力達成》とは別の極の)《方法獲得による能力達成》という発想がある。 この研究スタイルは今日現場サイドの研究においても完全に定著したわけであるが,それは必然的に,具体的な教材から離れて一般的なことば (概念) を操る傾向を顕著にした。

    ことばを操ってもよいのだが,そのときには論じているのはことばの論理なのだということを自覚していて欲しい。 一般的なことばで述べられている "数学的考え方","理解のレベル","問題解決のブロセス" といったものは,<事実>ではなくて,ことばの論理 (文法) である。 試みに,例えば "間題解決" の概念の分析をしてみよ。 即ち,これの下位概念── "問題を読む","要素を取り出す","問題の状況を特殊化する",等々──をできるだけ取り出した上でこれを論理的に関係づけ,書き下してみるのである。 これは机上の出来事であるが,しかレこれだけで,実際,既成の "問題僻決" 論の体裁のものは出来上がってくる。

    さて,実際は論理 (文法) が対象になっているこのような研究のスタイル──少し固い言い方をするなら,概念枠組あるいは概念装置の研究のスタイル──が現場の研究にも深く浸透してきており,そしてこれが今日の数学教育研究の目立った傾向なわけであるが,教材研究の強調はこれに対する一種解毒剤的な意味をもつと思う。 即ち,《知識学習,それから能力》という当たり前のところから遊離しないための。

    知畿を軽視レてはならない。 《知識指導ではない何か》と言うのもズレている。

    例えば,"概数" という知講を考えてみよう。 ''"概数" を形式的に定義することはできない。 ある数が別のある数の概数であると言ってよいかどうかは,ケース・バイ・ケースで決まることである。 したがって,"概数" の指導とは概数を導入する個々のケースに何があり,その各々についてどのような処置をすぺきかということの指導である。 これは全く生活的な指導である。

    もう少し詳しく述べるとしよう。 ある数に対し概数を用いることの意義は,実践的に感得される他はない。 概数が採用される理由については,ネガティヴとポジティヴの両面から考えることができる。 概数をはじき出す方がラクであり,実際概数で十分だから,というのがネガティヴな理由。 そして,概数の方にむしろ情報的な価値がある,というのがポジティヴな理由である。 ここに,情報的な価値の問題,それに対応して数を適切に丸める技術の問題が,特殊と一般的の両方の実践的な課題として持ち上がってくる。 そこで,どのような実践活動を学習課題として与えるかが,教材の方の問題になってくる。

    また,"概数"の指導は,即日常的な単純なレベルのものから専門技術的なレペルのものへ,というように進むだけのものではない。 "概数"は,情報的な問題の他に,つぎのような言わば存在的な問題を引きずっている。 即ち,《測定値は,測定器具の限界故に必然的に概数である》──算数科ではこのように指導する。 しかしこの指導の究極のゴールは,"正しい測定値" というものは固より存在しないという認識である。 この認識では,測定値は "概数" ではなくて "約束値" である。 即ち,《これが数値であることにしておこう》として採用された数値である。

    このように見てくれば,"概数" も馬鹿にできない知識であることがわかってくる。 そしてわたしは,この知識が持たれているということ自体が一つの確固とした能力であると,ここで主張したいのである。

    また,以上のことを頭において "概数" の指導を具体的かつ現実的に考えること,これは途方もないことであるように思われる。 実際そうである。 しかし,これが教材研究というものなのである。