補 足

    ○ 存在のフィクション
      数学教育論の中には様々なフィクションがある。ここでフィクションとは,存在に関するフィクションであり,それが学知的・学問的な体裁をとっているもののことである。わたしはこれを "形而上学" と呼ぶことにする。(実際, "形而上学" という語のこのような用い方は,本来のものである。)但し,ここでは,意味がよりストレートに伝わるであろう "存在のフィクション" という言い回しを,専ら用いていくことにする。
      存在のフィクションは,特に,心理学的ないし能力論的な言説,教育目的論的な言説において顕著である。しかし,これらを逐一取り上げてそれがどのようになっているかを見ていくことが,わたしのここでの目的ではない。余裕がないという理由からではなく, "存在のフィクション" という一般的事実を先決の問題として,これに専ら焦点を定めようと思うからである。もっともこれは,全く一般論として進行できるような議論ではないので,適宜, "問題解決"( "問題解決" の理念/それを擁して為されている言説)を存在のフィクションの事例としてこれに関して語る,という形態をとることにする。
      わたしは,存在のフィクションを退けようというのではない。誤解のないよう,このことは強調しておかねばならない。わたしは,これもまた存在のフィクションであるところの数学を退けないし,小説というフィクションを退けない。そしてこれと同じ意味で, "問題解決" は,差し当たって,わたしにとって退けるどうのという問題ではない。存在のフィクションに対してわれわれがとり得るスタンスは,これを "使う" かそうでないかの二つである。(もっともこれの他に "<教養>としてこれを差し当たり受容する" というのも挙げられるわけであるが,次元の違うこととしてこれは除いておく。)
      さて, "問題解決" という存在のフィクションの場合,この "使う" はどのようになるか。即ち,ひとは,どのような具合にそれに対して "使う" ということをしているのか。特に,それは先ず何のためなのか。わたしの見るところ,ここのところが本質的な論点になる。というのも,存在のフィクションの意義は,それの応用にあるからである。応用性がフィクションの出来・不出来の規準になる。この意味で,数学はよくできたフィクションである。では, "問題解決" についてはどうか。

    ○ フィクションと事実と
      ところで,このような問題の立て方は, "問題解決" は存在のフィクションであるという考え方を前提にしている。しかし,この前提はそもそもひとの受け入れるものではないかも知れない。実際, "問題解決" を存在のフィクションと見ることは,数学とか発達段階論とかを存在のフィクションと見るよりも,抵抗があるであろう。実のところ,わたしは敢えて "問題解決" を存在のフィクションの一事例として持ち出すことにしたのであり,それは "問題解決" が,現にひとがフィクションとして見ることをしないものの一つだからである。
      実際, "問題解決" は,事実学のように見えてしまう。また確かにそれは事実学のように述べられる。例えば,ひとは,問題解決はしかじかの段階からなる一つの事態(事実)である,というように述べる。問題解決のストラティジーにしかじかのものがある,と述べる。しかじかの指導によって問題解決能力が育成される,と述べる。
      しかし,われわれは,これらの記述はそのままフィクションとしても読めるということに,気づいているべきである。ちょうど, "桃太郎は鬼が島に渡った" という記述が,事実としてもフィクションとしても読めるように。
      さて, "桃太郎は鬼が島に渡った" はフィクションとして読まれるべきものなのであるが, "問題解決" の記述の方はどうか。例えば, "問題解決はしかじかの段階からなる" という記述は,事実として読むべきなのか,フィクションとして読むべきなのか。わたしは,フィクションとして読むべきであると思う。
      ここで, "フィクションとして読むべきである" と言うとき,わたしは "それは事実ではない" と言っているのではない。 "それは事実か否か?" の問題はそもそも成立しない。実際, "問題解決はしかじかの段階からなる" が証明される/反証されるとは,どのようなことか。われわれはその事態の模様を思い浮かべることができるか。
      わたしの言う "フィクション" は "存在の事実" の対立概念ではない。わたしは,あくまでも "フィクションとして読む" を "事実として読む" に対置したのである。
       "事実か否か?" が問題として成立しないような意識対象に対しては, "フィクションとして読む" も "事実として読む" も恣意である。但し,後者の場合には, "事実" と読まれたそのものは,言わば "超事実" ということになる。 "フィクションとして読む" とは,超事実は採らないということである。反対に,超事実を採る立場が "事実として読む" である。そしてこれが,概念に関するプラトニズム──イデア論──と呼ばれてきたところのものである。
       "しかし,いまの場合の "事実か否か?" は,本当に問題として成立しないのか。事実か否かはひと(主観)の判断することであり,またそれがどのような形で判断されるかもひと(主観)に依るのではないか。実際,存在の事実とは,存在の事実として承認されたもののことである。したがって,承認という事態が確かに起こっていれば,その存在の事実は "ある" と言ってよいのである。" ──わたしは,この仮想される反論に対してはつぎのように答えよう。即ち, "問題解決" で登場させられる存在に関しては, "事実か否か?" を直接問題化する言説のやりとりは現前していない;したがってこの反論は,事実上顧慮する必要のないものである。以下の二節でこれの意味を詳らかにしていく。

    ○ 存在の承認の言語ゲ−ム
      何が存在の事実の根拠として認められるかは,ひと(主観)に依存するばかりでなく,その存在が問題になっている対象にも依る。例えば, "見えない" ことはいつも "ない" ことの根拠になるわけではない(例:昼間の月)
      また,一つの対象に限っても,その存在の "根拠" として何が承認されるかは,状況に依存する事がらになる。 "根拠" はケ−ス・バイ・ケ−スでそれと認められたり認められなかったりする。例えば,鉛筆がここに<ある>ことの根拠について見てみよう。先ず,皆にその鉛筆が見えている状況では "根拠" の問題ははじめから起こらない。つぎに,皆が何も見えない暗闇の中にいる状況では,鉛筆を手に感触できるということを,<ある>ことの根拠にできる。しかし,どこどこのメーカーの鉛筆がここにあるということならば,それは根拠にはできない。しかし,皆がそのメーカーの鉛筆は非常に軽いというように理解していたならば, "軽い" を根拠にできる。他方,そのような理解がなければ, "軽い" は根拠にはできない,等々。
      さて,以上述べてきたことの中に示されているのは,<根拠>のプラグマティックな性格である。そこには,存在の承認の言語ゲ−ム( "言語ゲ−ム":Wittgenstein(註))しかない。
       "ある・なし" は,存在の承認の言語ゲ−ムである。したがって,存在への問いは, "あるか?" ではなく(極端な話,無いものも,無いものとして "ある" と言えるのであるから), "どのようにあるか?" になる。
      但しこれは,問題にしている対象のあり方を文字通りにきいている問いではない。問題の対象についての "ある" の承認の言語ゲ−ムがどのようであるかを問う問いである。──実際,<ある>というそのこと自体については,われわれは何も言えない。<ある>ということについては, "ある" ことの承認の言語ゲ−ムしかない。 "ある" ことの説明が起こるとしても,それはこの言語ゲ−ムの中に含まれるようなものである限りで, "説明" になる。──問われるのは, "ある" という語のどのような用いられ方が妥当なものとして人々の承認するところであるか,ということである。言い換えると,その対象について言われる "ある" という語の文法である。
      例えば,以下の言い回しの中の "ある" は,互いに異なる文法をもつ:
      "ここに鉛筆がある",
      "・・・・という国がある",
      "足に痛みがある",
      "異なる二点に対し,それを含む直線が一つ, しかもただ一つある",
      "問題解決能力がある"
      そこで, "問題解決" で主張される存在──例えば, "問題解決能力" ──の場合であるが,それに関する "ある" の承認の言語ゲ−ム,即ち "ある" の文法,はどのようになっているか。

    (註) 《現にそうしているということが先ずあり,そのことについての意味(規則)は結果的に読まれるだけのものである》──Wittgensteinはわれわれの社会的実践がこのようであることを強調的に示すために "言語ゲ−ム" のことばを導入する。

    ○ "ある" ものとしての登場
       "問題解決能力" については, "ある" の承認の言語ゲ−ムはない。これが現実であり,上の問いに対する答えである。
       "問題解決能力" については,存在の問題が提起されたことがないのである。それは,はじめから, "ある" ものとして数学教育的言説の中に登場してきている。小説の中の人物のようにそれは登場する。
      小説の作者は,フィクションである作中人物に対し,それの外見を記述し,内面を記述し,それの行動の機微を語るということをする。ひとが "問題解決能力" を論ずる仕方もこれと同じである。即ち, "問題解決能力" を先ず登場させ,そしてそれのストーリー──それは何か,どのような構造のものか,いかにして陶冶するか──を述べ始める。
       "問題解決能力" の論者は,存在への意識の仕方という一点において,かろうじて自らを小説の作者から区別する。後者は,自らフィクションをなす者であると認める。しかし, "問題解決能力" の論者にとって "問題解決能力" はフィクションではない。
      では, "問題解決能力" は何故はじめから "ある" ものとして数学教育の言説の中に登場することができたのか。これの存在に関する承認の言語ゲ−ムが起こらなかったのは何故か。
      確実に言い得ることは,このようになる素地が予めわれわれにあったということである。即ち, "ある" と既に承認されているもの "x" があって, "問題解決能力" は "x" と同類ないし類縁のものとして "x" と同席させられることになった。 "ある" ことになっている "x" と同じ・似た類のものであるから,それは "ある" のであって, "ある" ことの問題を起こす必要はない。
      では "x" として何があったのか。色々あった。しかしそれは, "これ" というように指し示すやり方では示しにくい。要は,われわれが "何々する力" ( "創造する力", "推理力", "発展的・統合的に考える力",等々)という対象化の仕方に馴らされていたということである。── "しかしそれだけのことか?" わたしは,それだけのことであると言いたい。

    ○ フィクションの応用
      フィクションの存在理由は,応用にある。フィクションの良し悪しは,それの応用性によってはかられる。
      例えば "桃太郎" の話は,娯楽の対象,教育の素材,はなしのネタ,実践的知見,子どもを寝かしつけるときの話,というように使われる。そしてこのそれぞれの使用の質と頻度において,このフィクションの価値は示される。
      数学教育論として述べられる存在のフィクション──例えば, "問題解決" ──の場合はどうか。それはどのような応用性をもつか。
      色々あるであろう。娯楽の対象,教育の素材,はなし(講義,論文を含む)のネタそれぞれに使えるし,実践的知見にもなる。子どもを寝かしつけるときの話には使えないが,われわれを自ら寝かしつけるのには役に立つかも知れない。しかしわれわれが関心をもつのは,言うまでもなく,実践的知見としてのそれの使用である。
      問題は,この種の使用がどのようなものになっているか/なり得るか,である。
       "問題解決" という存在のフィクションは, "問題解決指導" ── "問題解決能力の陶冶" あるいは "良き問題解決者の育成" のための指導──のための基礎的・実践的理論ということで展開されている。したがって,実践的知見としてのそれの応用性は,意図したところでは, "問題解決指導" の達成という一点に懸かることになる。そしてこの意味では,その知見は,算数・数学科の授業として何をすれば "問題解決指導" が実現されたことになるかを,われわれに明らかにするものでなければならない。
      現前の "問題解決" は,確かにこの方向を見て展開されている。それは, "この指導は問題解決指導である" と主張できるための十分条件を示している。そこでわれわれは, "問題解決" というフィクションを, "問題解決指導" であることの十分条件を満たすような指導を組み,それを実践することに使用することができる。
      しかし,この使用には意味があるのか。というのも,確かに "問題解決指導" は実践できるようになったが,その "問題解決指導" が本当に "問題解決能力の陶冶", "良き問題解決者の育成" であるということの保証は,まだ何も与えられていないからである。

    ○ 指導実践理論であることの不能
      実際,現前の "問題解決" は, "どうしてこの指導が問題解決指導ということになるか" というところ── "問題解決指導" であることの根拠──を述べることがないのである。 "問題解決" は, "問題解決指導" の十分条件を示唆するが,何故その条件が十分条件になるのかは述べない。要するに, "問題解決指導" の評価の項目をそれは持っていないのである。
       "問題解決" が "問題解決指導" の評価の項目を持っていないのは,未だ持っていないのではなく,そもそも持ち得ないのである。例えば足し算の指導の場合,それの評価は "子どもはいまでは二位数同士の足し算ができるようになっている" のような文の承認・不承認の形をとる。ところが "問題解決指導" の場合には,承認・不承認の対象になるような文が考えられないのである。実際, "問題解決指導" の目標概念として述べられる "問題解決能力", "良き問題解決者" のことばには, "いまでは彼に問題解決能力がついている", "いまでは彼は良き問題解決者である" という用法はない。
      しかし,ひとは一方で, "問題解決指導" の評価はあり得るという感じをもつ。それは, "問題解決能力", "良き問題解決者" を "ある" ものとして考えてしまうときである。ひとはこのとき, "いまでは彼に問題解決能力がついている", "いまでは彼は良き問題解決者である" の言い回し──奇妙な言い回し──に惹かれはじめている。しかし "問題解決能力", "良き問題解決者" についての "ある" は,既に述べたように,イデア的 "ある" である。そしてこれに対しては,評価は考えようがない。こうして, "評価はあり得る" という感じに導かれたわれわれは,評価の不能の認識という初めの場所に立ち返る。
       "問題解決" のフィクションは,このように指導実践の理論として使用されるとき,袋小路になる。指導実践の理論ということになれば,指導の評価の問題を扱わなければならない。そしてこの評価は, "問題解決" の場合には,論理上, "問題解決能力", "良き問題解決者" が現出したか否かの単純な評価になる。ところがこの評価は成立しない。 "問題解決能力", "良き問題解決者" に関しては, "現出する・しない", "ある・ない" ということがそもそもない──文法にない──のだから。

    ○ 論理変項と存在と
      フィクションは,論理を示している。それは,存在を記述する形で,一つの論理を自らにおいて示す。その中の存在は見掛け上のもので,実際は純粋に論理の変項として機能している。定項と見えるようなものでも,事実は,値が一つであることが論理的に規定されているような変項である。
      フィクションは,<論理を自らにおいて示すもの>の身分にとどまる限り,整合的である。不整合(自己撞着)は,論理変項を "ある" ものとして読むときに──形而上学を行なうときに──生じる。
       "問題解決" も,<存在>を呼び起こさない限りは整合的である。それならいま, "問題解決" を,自らにおいて一つの論理を示すところのフィクションの身分に返してやってはどうか。このことに "問題解決" の将来があるかどうかは分からないが,少なくとも自己撞着を引きずることに関しては,将来的な意味があるとは思えないのである。