Up 算数教育通信:類概念について 作成: 2012-09-14
更新: 2012-09-14


『石川算数』No.42 (1986.2), pp.6-8

類概念について

金沢大学助教授 宮 下 英 明

      算数の内容は難しい。教材研究をしているとつくづくそう感じさせられる。さてそれはどのような種類の難しさか。非常に大雑把に言ってしまうと,算数は,《無いものを有るものにする》,《"無いけれども有るもの" の上にさらに別の"無いけれども有るもの" を築いていく》ことがそれの内容であるから,難しいのである。ただこういう言い方をしてしまうと,知識一般がそういったものだ,とフォロ−しておかねばならないが ── 確かにこれは,算数に限ったことではない。

      《無いけれども有る》ということの意味であるが,例えば,"日本" は有るかと考えてみる。47都道府県を寄せたところで"日本" はできない。"外国" が登場してきて"日本" は存在するようになる。また,例えば"四角形" 。これはそれと区別される"三角形" なり"五角形" なりの"四角形でないもの" が登場することで,有るようになる。

      もう少し詳しく言うと,"四角形" が有るものになるためには,《これとこれは同じ,しかしこれとこれは違う》とする類別の発想,そしてそれの観点が一つ導入されなければならない。実際,このとき類別した類(クラス)の一つとして"四角形" は有る。

      いま述べたのは,"無いけれども有るもの" のうちでも,"類(の)概念" である。"四角形" は類概念として存在する。それは見方として存在するということで,ものとして存在するわけではない。無いけれども見方としては有る,こういうことである。

      "類概念" について,さらに考えてみる。類別は,《違うけれども同じ》という見方が含まれているからこそ類別である。類別における《これとこれは同じ》は,あくまでも《これとこれは違うものだが同じ》である。

      各類概念は,このように,《違うけれども,同じ》という見方・考え方を内容とした《無いけれども,有る》ものである。してみれば,類概念を教えることが易しいはずはない。難しいに決まっている。違ったものを同じになし,無いものを有るものになしてこの無いものを見ろ・考えろというのだから,終には要領を得て慣れてしまうようなことではあっても,やはり大変なことである。

      例えば,"四角形" は具体物への指示 ── 《これが"四角形" というものだ》 ── でもって教えられるだろうか。このような仕方で教えられるのは,学習者がある知的レベルに達している場合である。即ち,指示されているものが何かを理解できるレベルである。これ以前では,四角いカ−ドを"四角形" と指示されても,カ−ドのことかと思うかも知れないし,極端な場合,そのものの色のこととしてしまっても無理はない。("四角形" の例ではピンと来なければ,例えば,低学年の子どもに"柱体(ちゅうたい)" を指示の方法で教えることを想像してみよう。)

      実際,"四角形" という概念を持てというのは,大人の勝手である。そもそも算数を教えるということ自体,畢竟,大人の見方・考え方の或る一領域を教えることである。この意味で,算数を教えることと大人としての行儀を教えることの間に区別はない。

      さて,《違うけれども,同じ》と見るとき,何が同じであるのか。<型>とか<構造>という言い方でわれわれが表現しているようなものである。実際,現実のものとしての《違うけれども,同じ》の見方は,モノを構造的に見,かつ構造的にのみ見る,その見方である。

      ところで,《違うけれども,同じ》を端的に表現できる概念が,数学の中にはある。即ち,"同値" の概念である。

      この"同値" の概念を用いることは,算数教材(知識)の研究をスマ−トにしていく一つの手立てである。逆に,この概念をオモテに出せないとなれば,教材(知識)研究はいたって不自由である。この意味で,"同値" の概念をめぐる一定の知識は現場教師の常識であるべきだと,わたしは常々考えている。

      さて,数学における"同値" の概念は,どのようなものであったか。先ず"同値関係" であるが,これは"同じ仲間" と読むべき関係である。但し,それは,仲間分けが完全な分割になる(即ち,二つ以上のグル−プにまたがって所属するようなものは出てこない)ようなものでなければならない。そのための条件がつぎのものである ── 但し,xとyが同値(同じ仲間)であることをx〜yで表わす:

      1° x〜x
      2° x〜yならばy〜x
      3° x〜yかつy〜zならばx〜z

      いま集合Xにおいて同値関係〜が与えられているとする。Xを関係〜で類別したとき,各類を〜に関する同値類と言う。つぎに,各類を新たに一つの対象として考える。こうして対象になったもの全体をX/〜 と書くことにして,Xの〜による商(集合) と呼ぶ。

      例えば,こういうことである。地球上の人間全体Xを同じ国籍という関係〜で類別する。つぎに各類を再び国籍という形で対象化する。このときの国籍全体の集合{日本,アメリカ,フランス,‥‥}がX/〜 である。

      先の《違うけれども,同じ》の見方は,正に〜の見方である。(《違うものは同じではない》と言う場合の "同じ" には記号 "=" を用いる。)   さて,分類の規準は本来同値関係〜であるが,日常生活的なレベルでは,これが直接分類の規準として用いられているわけではない。われわれは,一旦Xを類別してしまったら,各類に "名前" を与える。さらに同じ類に属する要素にこの類の名を共有させる(家族名)。そして,同じ名であることを,類別の規準として用いる。

      関係〜で判定して仲間を集めるか,同一の名前の下に仲間を結集させるか,の二つの方法のうち,後者の方法が日常生活的には選ばれているというわけである。

      歴史的には,"(これこれ)の理由でこれらは同じ仲間だ" という認識から,分類が生じる。しかし後世の者は,この分類の発生史を繰り返すことはしないで,分類名でもって分類の枠を先取りする。そして,"なぜ同じ名であるのか" という形で,同じ仲間である理由を後から考える。

      同じ仲間である理由を説明できることと,同じ仲間であることを了解できることとは別である。例えば,幼児でも,二つの "しかくけい" が同じ仲間で,これらと "まる" が違う仲間であるということを,了解できる。そこでまた,ものの名前を教えるだけでも指導として成立する,ということにもなる。説明 ── 即ち,関係〜 の言語表現 ── は,この場合,後からくっつく。

      いま,類概念の成立を,算数の二つの内容において見ておくとしよう。

      一つは,モノ(現象)としての自動車の速さや人の歩く速さを "速さ" として捉える場合である。速さを表現するのに,われわれは "経過時間tにつき進行距離はdである" ── あるいはこの逆の,"進行距離dに対する経過時間はtである" ── という言い方を用いる。このことを逆に見ると,経過時間と進行距離という枠組みで捉えられるならば,それは速さであるということになる。またこのとき,モノとしては全く別のものである自動車の速さや人の歩く速さが,等質化される ── 同類のものになる。実際,われわれは,《経過時間と進行距離》という見方によって一つの類をつくり出し,"速さ" の名をこの類の要素に共有させる。

      このレベルの "速さ" の類 ── 集合X ── に対しては,さらに,"速さが同じ・違う" という観点から,分類がなされる。ここで,"速さが同じ" の規準 ── 同値関係〜 ── は,速さ(Xの要素)としての時間と距離の対 (t, d), (t′, d′) に対する
    t:t′=d:d′
    の関係である。

      〜に関する各同値類Rは,どのようなものか。先ず,それの要素は時間と距離の対(t,d)であるが,数学では対を要素とする集合を "関係" と呼ぶ(いまの場合は "二項関係" である)。さらに,Rの任意の要素 (t, d), (t′, d′) について t:t′=d:d′ が成り立っていることを指して,Rは(時間と距離の間の)比例関係と呼ばれる。したがって特に,X/〜 は,時間と距離のあいだの比例関係を要素とし,かつこのような比例関係全体からなる集合ということになる。

      さて,関係〜でXを類別したときに出て来る類に対しても,われわれは "速さ" という呼び方をする。即ち,X/〜 の場合にも,"速さ" の名をそれの要素に共有させている。

      Xの要素の家族名としての "速さ" とX/〜 の要素の家族名としての "速さ" を区別するために,前者を "速さ1" ,後者を "速さ2" と言い表わすとしよう。この二つの呼び名を一つの言い回しの中で用いるとすれば,例えばつぎのようになる:"三つの速さ1 v=(1時間,1km),v′=(1時間,2km),v″=(2時間,2km)において,vとv″ は同じ速さ2で,v′ はこれらと異なる速さ2である。"

      なお,速さ1 の概念は速さ2 の概念の中に解消するわけではない。例えば,人間(?)の能力としての100mを10秒で走ることと,400mを40秒で走ることとは,比べられない。これに対し,自動車の能力のことであれば,"両者は同じ速さだ(同じことだ)" と言い得るであろう。

      もう一つ例は,長さである。

      モノの長さはどのように捉えられるか。先ず,モノにおいて幾何学的形象としての線分が認められる。ところで,このとき認められた線分に対して "長さ" の名を与える場合がある。即ち,"線分" という枠組みで捉えられるならばそれは "長さ" であるとしてしまう認識の形が,現実のものとしてある。そしてこのとき,モノとしては全く別の鉛筆や机のへりが等質化される ── 同類のものになる。

      このレベルの "長さ" の類 ── 線分全体の集合X ── に対しては,さらに,"長さが同じ・違う" の観点から類別がなされる。このときの "長さが同じ" の規準 ── 同値関係〜 ── は,線分に関する合同である。

      この関係でXを類別したときの類も,長さと見なされる。即ち,われわれはX/〜 の場合にも,"長さ" の名をそれの要素に共有させている。

      先の "速さ" の場合のように,Xの要素の家族名としての "長さ" とX/〜 の要素の家族名としての "長さ" を,前者を "長さ1" ,後者を "長さ2" と言い表わして区別しよう。このとき,"二つの長さ1a,bは合同であるときに同じ長さ2である" となる。

      最後に,同値関係〜の算数的なあるいは日常生活的な読み方ないし捉え方について。

      速さを例としよう。関係 (t,d)〜(t′,d′)の読み方は,"tに対するdの割合と t′に対するd′の割合は同じ" である。これはどのような意味のことを言っているのか。"t:t′=d:d′" のこととは違うようである。実際にどういう形でこの結論が出て来るかを考えてみるとよいだろう。そこでは,単位量あたりの量が出されているはずである。つまり,(t,d)〜(t′,d′)は単位量あたりの量の相等関係で判定されているわけである。単位量あたりの量とは,各類において選ばれている代表者である(数学の用語は"代表元" )。類の代表者を選んでおけば,どの代表者と同じ仲間かということで,各要素の属する類を特定できる。また各類は "(これこれ) を代表者とする類" という名前を持てるわけである。