"図形" 指導における存在の問題

宮下英明       
金沢大学 教育学部  


要約 算数教材研究において持ち上がる存在の問題を,特に "図形" 領域での "形" の主題について考察する。形はモノにではなく<私>に属する。さらに,それは言語共同体における有意味な行為として現実のものになる。この意味において,形は<ことば>である。形は<私>に属するものとして恣意であり,共同体に属するものとして相対的である。この認識に立って,形の主題の教材化を "合同" の単元で試み,この場合の問題点を述べてみる。



1 主題の考察

1.1 〈私〉の表出としての形
 モノ(外在)の形は,そのモノが契機となって起こった,〈私〉の表出である。──或る虫がこのモノに対して見た形(?)は,その虫の自己表出である。
 モノの形は,モノに属するのではなく,〈私〉に属する。そして,どのような自己表出であるかが,そのひとの〈身体性〉になる。この意味で,形は〈私〉の身体性である。
 特に,形はモノの"属性" などではない
 形は,実在に関する事実として,そしてこの意味で〈実在〉として,考えられやすい。即ち,"形はモノの属性である","モノの属性として形が在る" という具合に。しかし,形は〈形を見る〉主体が見るところのものである。そして一般に,属性は〈属性を捉える〉主体が捉えるところのものである。
 モノに対してわれわれは形を見る。しかしそれは,《モノの形という事実があって,われわれはそれを見出す》ということではない。われわれの身体性として,《モノとの出会いにおいてモノに形を認める》があるということである。
 形はわれわれの身体の事実であり,モノの事実ではない。実際,同一のモノに対するわれわれと或る生物の捉え方が違うとすれば,それは,"属性" がわれわれの身体性に他ならないことを示していることになる。例えば,犬が"色盲" であるということは,色(=われわれの知る色)がわれわれの身体性に他ならないということを示しているのである。

1.2 共同体において有意味な行為としての形
 モノに形を認めることは〈私〉の表出である。しかしそれは,"モノに形を認める" である必要はない
 形は,私的な出来事の中にはない。形は,生活の共同体の中にある。
 このときの形は,〈ことば〉である。形の存在の身分は,〈ことば〉である。但し,文字とか図式とかひとの発する音声とかがことばなのではない。ことばは行為として,但し共同体において有意味な行為として,実在する。
 特に,形はひとの有意味な行為として存在する。

1.3 述語投企としての形の対象化
 対象("この皿","あの山" 等々──以下"[何]")からそれの形を対象化するのは,述語投企の実践である。われわれが"[何]にそれの形を見る" ──ということばで表現している実践は,述語としての形の投企である。
 [何]にそれの形が備わっているわけではない。われわれが[何]に形を与える。そして,述語投企の実践として,[何]に形を与えるのである。"[何]の形" は,[何]に対する述語として存在する。
 "[何]の形" は[何]のうちにはない。また,[何]が目に映っていることのうちにもない。"[何]の形" は,意識に対象化される限りで,かつ意識に対象化されているところのものとして,存る。そして対象化されているところの"[何]の形" は,[何]の述語である。

1.4 カテゴリーとしての"形" の意識
 "形" は,"形" としての表現が志向されている限りで"形" である。
 例えば,"まる","しかく","さんかく" ということばを覚えたての子どもにとって,これらのことばを適用できない形は,"形" として認識するものではないのである。彼らにおいては,色々な形の中に"まる","しかく","さんかく" があるのではない。"まる","しかく","さんかく" がある,ただそれだけである。
 これに対し,われわれは"形" を"色々な形" として考える。しかしそれは,"色々な形" が現前するからそうしている,ということではない。"色々な形" は,"色々な形" を考えることの原因ではなく,"色々な形" を考えることの結果である。
 "まる","しかく","さんかく" という"形" がありこれの他には"形" はない子どもと,"色々な形" を考えるわれわれとの違いは,カテゴリーとしての"形" の概念を持っているかいないかの違いである。
 "形" の語が,形のカテゴリーの意識を導き,また,形のことばの開発に向かわせる。実際,対象のことば"[何]" に対しては,"の形" のことばを付加することが(論理上可能かどうかはともかく)文法上つねに可能であり,このとき"[何]の形" の述定ということが,主題として立つようになる。そして,"[何]" と"の形" の結合が新しいものなら,既成にはない新しい形のことばが生み出される可能性が出てくる。

1.5 述語の恣意性
 述語投企の実践において,述語はそれを投企する主体の恣意──そうしてよいことの保証を持てない恣意──である。
 "モノに形を見る" は,述語投企の実践である。そこで特に,ひとがモノに対して見る形はひとの恣意である。見た形については,正しいも正しくないもない──実際,全く正反対のことも言い得る(註1)
 述語投企が保証なしであるということは,言い換えれば,述語の投企は自由だということである。ひとは自分の都合で勝手な述語の投企ができるし,またそうするしかない。どのような述語を投企できるかで,そのひとの甲斐性が試される。

(註) 例えば,図:


に対する"この形は円である" という認識を保証するものはない。"円である" と言えば円であり,"(歪んでいるから)円でない" と言えば円でない。──実際,"歪んでいる" とひとに言わせないような円の図を描くことはできない。しかしまた,われわれは,


のような図を"円" として通用させることもできるのである。

1.6 "文法的に可能" と"論理的に可能"
 形は述語である。したがってそれは,"[何]は" ということばと文法上つねに結合できる。(例えば,"赤は" +"三角形" ="赤は三角形" 。)──特に,一つの "[何]は" に対して,任意の形=述語を結合することができる。
 われわれは,《モノは如何ようにも見得る》という意味で,"形の恣意性" ということばを使いたくなる。しかし,上に述べた文法的結合の自由性が,"形の恣意性" の実態である。"形の恣意性" の話は,〈モノ〉や〈見る〉無しで成立する。
 文法上可能な語の結合に対し,さらにそれの真偽を定めるのが"論理" である。語の結合に関する"文法的に可能" は,この"論理的に可能" からは区別される。──後者の場合,述語は対象の語の論理的含意になる。述語は,対象の語の論理的必然になる。
 述語の投企は"文法上可能な述語の結合" であり,これをしてよいことの保証をもたない。保証するものは"論理" であり,それが導入されてはじめて,述語の結合は〈恣意性〉から免れるようになる。

1.7 述語投企の規制要因──言語と身体性
 述語投企は,本質的に恣意(自由)である。しかしその恣意(自由)は自ずと規制されている。そして述語投企の傾向として現象する。
 述語投企の規制要因として,われわれは色々なものを色々なレベルで挙げることが出来る。例えば,"共同体の価値体系" ということばで漠然と想念されるものも,その一つである。しかしいまは特に,言語と身体性の二つを,述語投企の規制要因として主題化しておく。

1.7.1 言語
 述語投企の対象化行為は,言語生活の中にある。それは,ことばの運用として,言語の枠内にあり,言語によって傾向を与えられる。そしてこの意味で,言語が述語投企(対象化行為)の規制要因になっている。
 例えば,いま"柱" を学習しているクラス──言語共同体──では,二つの図:


が同じ形として捉えられる傾向にある。(別の言語共同体に属している人には同じ形としては捉えられない。)

1.7.2 身体性
 述語の投企の実践が跳躍であり,また一方日常言語の効果であるとしても,それの素地にはわれわれの身体性──身体の傾向──というものがある(註)
 例えば,


の三つの図に対して,(1) と (2) が同じ形に見えてしまい,(3) がこれとは違う形に見えてしまうというような

(註) そもそも,われわれの身体性としての《モノに形を見る》,《モノとの出会いにおいてモノに形を認める》が,形の語をめぐる言語生活のおおもとにあるわけである。──そこで特に,"モノの形" は,われわれの身体の事実("形を見る" )であるということになる。

1.8 学習されるものとしての形
  われわれは物に"形" を見てしまう。しかしこの事態は,何がしかの学習=生活経験の上に成立している。(このことを認識する上で,つぎの事実の想起が役立つ。即ち,開眼手術によって目が見えるようになった先天性盲人は,われわれのように物が見えるためには,しばらくの期間学習的な経験を積まなければならない,ということ。)
  それはどのような経験か。色々挙げ得るであろう。例えば,立体の認識に本質的に関わる経験として,物を色々な面から見ている経験がある,という具合に。
  この種の経験は,物についての事実を認識する経験である。そしてそれは,先の例が示すように,"視覚的" なものに限られない。実際,"視覚的" とか"触覚的" とかの区分は,この場合無意味である。(例えば,視線は物をなでるように動くという事実を考えれば,"見る" は"触る" の延長であると言ってもよいわけである。)

1.9 述語の相対性
 形の表現は,相対的でしかない。
 例えば,われわれは三角形を


のように描くが,これは三角形の可能な表現のうちの一つに過ぎない。実際,われわれは


を三角形の表現に使えるし,


も三角形の表現になり得る。
 (a)が三角形の汎用的表現になっているのは,原理的な理由があってではない。"使い勝手" という生活実践的な理由──例えば,(a)の方が (c)よりもずっと楽に描けるというような──からである。
 表現としての (a),(b),(c) の間の優劣は,ケ−ス・バイ・ケ−スのものである。例えば,(a)では頂点が広さをもち,辺が太さをもってしまうのに対し,(c)では広さをもたない頂点,太さをもたない辺が表現できる。
 述語──述語としての形──の相対性は,共同体/文化の相対性あるいは身体性の相対性である。
 共同体/文化の違いおよび身体性の違いは,どちらも,良い・悪いの問題ではない。それが大多数と例外的少数("特異" )の別をつくるようなものである場合にも,然りである。
 形の捉え方において大多数と例外的少数の別が現われるという事実に,説明は立たない。ひとはこのことに理屈を立てたがる。しかし理屈は理屈でしかない。ともかく先ず事実がある。この事実は或る理由によって事実になるのではない。理由は,後から考え出される(でっち上げられる)。

1.10 述語投企の実効の不可視性
 述語投企の実効を保証するものはない。"実効する述語投企" を規準化することはできない。 述語投企の実効はケ−ス・バイ・ケ−スである。《或る場面では,或る述語投企は実効し或る述語投企は実効しなかった》,《或る述語投企は,或る場面では実効し或る場面では実効しなかった》という結果しかない(註)
 したがって,述語投企は〈賭け〉である。自分がしようとする述語投企が他者に受容/共有されるかどうかは,やってみることでしかわからない。述語投企は,根拠なしの実践である。
 一つの"[何]" に対してどのような形=述語を結合させることも本質的に自由("形の恣意性" )であるが,それと《この自由が通用する》ということとは違う。また,それぞれの自由は互いに相対的でしかない(述語の相対性,"形の相対性" )からといって,どの自由も生活の中で等価だということにはならない。──自由であるということと,自由が通用するということは,別問題である。
 通用する自由(恣意)を"公的" のことばで形容し,そうでない自由(恣意)を"私的" のことばで形容することにしよう。
 ある自由が公的か私的かは,共同体の如何で変わってくる。
 公的/私的の別は,良い/悪いの別ではない。ある一つの自由が公的であるのは,言語(文化)とわれわれの身体性の問題である。

1.11 対象化と述定
 形の述定が,形の対象化である。述定された形が,対象化された形である。述定の仕方の違いは,対象化の仕方そのものの違いである。
 "つつのような形" の表現には,"つつのような形" の対象化が対応するのであり,例えば,"柱" のような対象化はそこには起こっていない。逆に,"柱のような形" という表現がされたときには,"つつのような形" の対象化は起こっていない。

1.12 モノ
 対象は,意識の上ではしばしばモノである。
 "モノ" は,脱言語の存在の謂いである。"脱言語" が,モノの特徴づけになる。特に,モノは,"モノとはしかじか" という形では述べられない。《"これについては述べられない" は,モノの含意である》という意味で,モノについては述べることができないのである。
 モノは,述べられない。ある言い回し──例えば,"これは円い" という言い回し──において示されるのみである。
 形の語は,モノに対して投企される場合もあるし,主語と述語の結合の意味合いでことば(主語)に(述語として)投企される場合もある。──例えば,前者の場合の"この皿はまるい",後者の場合の"テントウムシ(というもの)はまるい" 。

1.13 述語の論理的導出
 対象に対する述語の投企──恣意的結合──の対立概念は,対象からの述語の論理的導出である。即ち,述語が〈対象=論理的対象〉の論理的含意として導出される場合である。
 この導出は推論であり,対象に対する述語の関係は,"論理的必然" である。特に,(述語投企の場合にはあった)〈他者の承認〉という要素は,入ってこない。

1.14 論理系の意義(効用)
 論理系の意義は,"世界の事態のシミュレーション" の意味での"計算" にある。それは,応用計算に対する数体系の意義と変わらない。
 例えば或る論理は,"因果の論理" の読みで,しかじかの操作に対する結果を予見することに応用される。また論理のフィルターを通して見ることで,既知の個々の事実が或る一般的事実へと拡張されるようになる。

1.15 事実=論理的事実
 幾何学(数学)における〈事実〉とは,論理的事実のことである。事実か否かの判定の規準が論理として与えられているために,そこでは〈事実〉を扱える。
 "形" の論の段階では,〈事実〉を扱えない。モノに形を見ることは,実在としてのそれの事実を取り上げることではない。形はひとの恣意であり,保証を持たない。

1.16 "形" の数学化──本質疎外
 ひとは,日常語の数学化を"日常語の厳密化/正確化" のように考えたがる。"日常語=曖昧,数学=正確" の図式を立てたがる。しかしこの認識は,誤りである。
 日常語の数学化には,"曖昧さから確かさへ","欠陥から完全へ","不十分から十分へ" のような意味合いは何もない。日常語の数学化は,日常語の別もの化(本質疎外)である。
 確かに,数学は日常言語を雛型にしている。日常言語から対象のモデルを借り,それをコトバとして自立させる。しかしそれは,日常言語の改良としてではない。
 日常言語と数学は,それぞれ別の用途と射程を持つ。両者は別ものとして横に並ぶ。上下には並ばない。
 実際,以下に述べるような意味で(註),数学的な語用は日常の生活の或る場合においては使いものにならない。
 日常語としての形(即ち,生活実践上の形)"X" の数学化は,"X" を或る数学的条件(ここで"数学的条件" の意味は,その条件の記述が数学の中の記述になっているということ)を満たすものとして捉えることである。しかし,この数学的条件は,もとの"X" に対しては欠落であると同時に過剰である。即ち,生活実践の中で"X" と捉えられるものが,数学の中では"X" でなくなり,逆に,数学の中で"X" であるものが,生活実践の中では"X" でなくなる。
 例えば,数学の概念の"柱(ちゅう)":


は,日常語の"柱(はしら)" の数学化であるが,この二つの見方はつぎのようにズレてしまう
 ・柱(はしら)に見えなくとも柱(ちゅう):



 ・柱(はしら)に見えても柱(ちゅう)でない:


(註) 逆に,つぎのような意味においてではない:《"まるい"="一点から等距離"のときには,物を指して"これはまるい" と言うことが永久に不可能になる。》──実際,このような言い方は,《日常語の数学化=日常語の厳密化》の発想の下にある。

2 教材研究

(当日資料)