Up 本論文の主題/位置づけ 作成: 2012-08-29
更新: 2012-08-29


     本論文は,数学教育学方法論に属する論考として作られている。

    1 《問いに答える》対《問いを問う》
     数学教育学方法論における第一次的な主題は,
      "数学教育学的探究を導く問いとして,どのようなものが立てられるべきか?"
    である。
     しかし一方,現にさまざまな問いが立てられ,そしてその問いへのアプローチが既になされている,という現実がある。したがって,上の主題に対する探究は,差し当たって,つぎの形の探究に傾く。即ち,われわれの周りにある問いをとらえて,
      "その問いは拙くないか?"
    と問い,この上位の問いに自ら答えようとする探究である。そして,拙いと判断される問いに対してそれの修正あるいは解消を行なうことによって,われわれの周りにある問いを整備しようとする。
     これが,《問いに答える》に《問いを問う》を対置し,数学教育学方法論として後者を主題化することの,意義である。

    2 本論文の主題/位置づけ
     本論文は,数学教育学方法論の下位主題:
      "教授/学習主体論の主題下で立てられる問いは,どのようなものであるべきか?"
    にアプローチしようとする一論考であり,この主題の下位主題:
      "教授/学習主体論の主題の下で現実に立てられている問いは,どのようなものか?"
    に対し,差し当たってつぎの答えを用意しようとするものである:
      "これらの問いを立てさせているオリエンテーションとして合理主義が同定される"
    このとき,"合理主義"の相対化のために,現象学的オリエンテーション,ライルやウィトゲンシュタインのオリエンテーション,プラグマティズム──また,これらを通貫するものとして,全体主義(holism),歴史主義──を,反合理主義的オリエンテーションとして合理主義に対置する。また,これらの反-合理主義的オリエンテーションに使えるメタファとして,PDPモデルを意義づける。

    3 "拙い問い"の構造
     "拙い問い"の判断の理由としてわれわれが一様に指摘することになるものは,"論点先取"である。例えば,
      "問題解決指導はどのようになるか?"
      "メタ認知の機制はどのようなものか?"
    のような問いに対し,"その問いは拙くないか?"と問うことでわれわれが考えようとするものは,"一般的問題解決能力"や"メタ認知"の概念化において論点の先取がなされていないか,ということである。
     論点の先取を含む問いは,論点先取を理由に直ちに無意義であるとはしないまでも,論点の内容が棚上げないし阻却されるときには確実に無意義になる。
     一方,"無意義な問い"は,はじめから問いではない。この意味で,それは"拙い問い"になる。ここでさらにプラグマティズム(Rorty,1988)に即くとすれば,はじめから問いではない"問い"に対するわれわれの処置はただ一つ,即ち解消である。決して,別の問いに改めることではない。
     さて,すべての論点は,〈生活からの遊離〉を契機としていることで共通している。実際,〈生活〉に直接基づいている知識は,know how として自明であり,最初から論点にならない("知識"にさえもならない)。
     例えば"問題解決指導"が論点の場合,この〈生活からの遊離〉という契機は,第一次的なものである。実際,"問題解決指導"が論点である所以は,専ら,説明を〈生活〉に基づかせることがうまくできないということである。
    "この単元の主題をわれわれはこのように解釈した;さてこの主題を生徒に伝えるための指導はどのようになるか?"
    という問いが無意義でないのは,教師にとって"内容的な指導"が生活的なものだからである。一方,
      "問題解決指導はどのようになるか?"
    という問いが無意義に見えるとすれば,それは"問題解決指導"──"一般的問題解決能力の陶冶のための指導"としての──が教師の生活から遊離するものだからである。
     "生活から遊離している"とは,感覚的には,"手ごたえが得られない"ということである。 "内容的な指導"の場合,教師は明白に手ごたえを持つ。しかし"問題解決指導"については,教師は手ごたえを得られない──そもそも,何がこの場合の〈手ごたえ〉ということになるのか分からない。こうして,"問題解決指導"はただただ〈空回り〉する。そしてここが肝心な点であるが,"問題解決指導"として空回りしているものは,そもそも"問題解決指導"である必要はない("問題解決指導"と呼ばれる理由はない)のである。こうして,問い:"問題解決指導はどのようになるか?"は,無意義な問いとなる。
     "メタ認知"が論点の場合は,論理的なほころび──特に,自己撞着──が,論点であることの第一義的な契機になる。実際,"メタ認知"は論理的な概念であり,そして論理においてそれは自己撞着してしまう(掲載文§3.8 および〈補足2〉参照)。よって,"メタ認知"に対するわれわれの措置は,"阻却"ということになる("問題解決指導"に対するわれわれの措置は,"阻却"ではなく"棚上げ──永久的棚上げ"である)。こうして,問い:"メタ認知の機制はどのようなものか?"は,無意義な問いとなる。

    4 "拙くない問い"の条件──生活的意義
     あからさまに"拙い問い"を除けば,"拙い問い"の意味は"無意義な問い"である。したがって,"拙くない問い"の意味は"意義のある問い"となる。そして,問いが意義をもつとは,この場合,
      《その問いに答えることには,生活上有用な知見をもたらすという含意がある》
    ということであり,知見が生活上有用であるとは,生活の整備に役立つとか,ある種の生活的な予見を可能にする,ということである。
     数学教育学方法論の主題下で考える"生活"は,"学校生活"に含まれるところの"数学の教授/学習"である(註)。決して,"数学教育学的探究者の生活"ではない。
     例えば,"学的探究の整備に役立つ"ということは,ここで考えている"生活的有用性"ではない。実際,学的探究の整備を可能にした知見が,生活上無意義,あるいは後退になっている,ということは十分あり得ることである。
     例えば,人間を情報処理機械と見なすことは,ある種の学的探究を著しく簡素化する。しかしその簡素化は,"人間は決してこのようではない"という結論を用意するためのものでないとすれば,あるがままの人間の理解からの後退である。あるがままの人間から遊離したこの知見は,当然生活(特に,学校生活としての数学教授/学習の営み)の整備には役立たない。役立てようとすれば生活に破綻が生じる。──しかしもちろん,生活は実際には破綻しない。生活は,はじめからこの知見を無視してかかるからである。
     数学教育学方法論において主題になる"数学教育学的探究を導く問い"は,数学教育学的探究を導くことを"ためにする"問いではない。この点に関してわれわれは本末転倒してはならない。

    (註) "数学の教授/学習"としての"生活"(⊂"学校生活")と,"数学の教授/学習の営みは何のためか?"という形で問われる"生活"(⊂"日常生活")を区別する。後者は,数学教育目標論の問題になる。

    5 間主観性としての"拙くない/拙い問い"
     問いに対する生活的意義の有無の判断は,詰まるところ,主観である。よって,"拙くない/拙い問い"は,間主観性として決まる。それは,〈問いを問う主観〉の間のデモクラシーの帰結するところである。

    6 〈問われ得ない問い〉
     つぎの問いの下位の問い(註)として位置づく問いは,有意義であると定める:
      "数学的実践的傾向性D1を数学的実践的傾向性D2に変えるための数学の指導Iは,どのようなものか?"
      ("・・・・ができる学習者をさらに・・・・ができるようにするための指導は,どのようなものか?")
    そして,この問いを〈問われ得ない問い〉と定め,特権化する。

    (註) 問いの列:
        1 → Q2 → ・・・・ → Qn
    が,《Qi+1 が答えられるとき,Qi も答えられる》の関係にあるとき,Qn はQ1 の下位の問いであると言うことにする。