Up 2.3 数学教育実践論  


     数学教育実践論は,関数としての数学教育を実現する方法を主題と定める論考である。注意しなければならないのは,関数は実現されるのであり,作られるのではない,ということである。実際,それは作り得ない。

     われわれが作為するのは,一つのテクスト(§2.1.2,(註2))である。そしてうまくいけば,このテクストをインプットとし所期の事態をアウトプットするような関数が,自ずと形成される。(言うまでもなく,関数の形成は,所期の事態の現出を以って権利的に主張されるといったものである。)

     このように関数の実現は,手探りの実践である。それは〈賭け〉であり〈投機〉である。われわれは,"場の力"を利用するだけである。即ち,場の一部を作為し,或る所期の事態が場に現われることを期待するのみである。"教える"とは,このようなことである。

     ただ,われわれは"教える"をこんなにも投機的なものとは感じていない。それは結構確実なものである。しかしこの確実性は,徹頭徹尾学習の成果,しかも系統的かつ個体的な学習の成果,である。

     わたしはここで"系統的な学習の成果"を,特に強調するとしよう("個体的"の方は自明とされるだろうから)。

     例えば,犬に教える場合,われわれは相応の教え方をする。この"相応"をわれわれはどこで知ったのか。それは,自ら発見したというよりも,伝来の知識として受け継いだものなのである。この知識のありがたさを,われわれは例えば"未知の生き物との遭遇"のところで味わうだろう──"宇宙だろうか宇宙だろうか?"。そしてそのとき,"教える"(註)の本質が〈投機〉であることを嫌という程思い知るだろう。

     誤解はないと思うが,"未知の生き物との遭遇"はSFとして言っているのではない。教師にとって授業はつねに"未知の生き物との遭遇"である。


    (註) コミュニケーションは,コミュニケーション条件を逐次更新するという形で進行している。"条件更新"は"教える"に因っていることになるから,結局,コミュニケーションは"教える"として進行していることになる。