Up 4.1.2 二つのモデル  


     一般陶冶論は"転移"を論拠とする。そして,自らの論拠であるこの"転移"を捉えようと努めてきた。

     今日の一般陶冶論は問題解決論(ストラティジー論)の姿で,表象主義に立っている。しかし表象主義で"転移"を捉えようとする試みには,はじめから構造的な無理がある。表象主義は,"転移"と相性が悪い。

     即ち,表象はぼやけてくれないのだ。そしてこのような表象でつくられた構造── 一つの能力──も,当然ぼやけてはくれない。表象主義の概念装置では,転移のような柔らかい出来事を作り出せない。それは,言い換えれば,フォン・ノイマン型コンピュータのアーキテクチャの上では柔らかさを作り出せないということだ。

     ここで,コネクショニスト・モデル(PDPモデル)(註1)の登場となる。コネクショニスト・モデルは"柔らかさ"そして"転移"と相性がよい。

     フォン・ノイマン型のアーキテクチャは,決定論で作られている。特にそれは,入力をコントロールしている。即ち,入力を有意味とする規格が予め定められていて,この規格から外れる入力を,表向き受け入れつつも,内部で無効なルートに流して消尽してしまう。言い換えると,圧倒的多数の入力が,《機械の状態を変えない,出力も産まない》入力だということである。これがフォン・ノイマン型の── 一般に,表象主義の──固さだ。

     これに対しコネクショニスト・モデルは,入力をコントロールしない(できない)。すべての入力が同格で実質的な入力になる。そして,うまく育てれば,似た入力に対して似た出力を行なうようになる。これが,コネクショニスト・モデルの柔らかさだ。

     表象主義に立って転移を説明するのが困難なのは,表象主義が決定論だからである。決定論では"転移"もプログラムされていなければならない理屈だが,未知の入力に対して開いていることをプログラムすることは,決定論としてできない相談なのだ。

     これに対しコネクショニスト・モデルでは,〈似た入力に対して似た出力をするように成長していく存在者〉を実現できる。コネクショニズムのこれまでの成果がどれほどのものかということは,ここでは問題ではない。重要なことは,それが確実に〈知能〉理解の現実的な方向を指し示しているということなのである。(しかも,コネクショニスト・モデルが〈知能〉理解の現実的な方向を指し示すのは,"転移"の主題に限らない。)

     但し,誤解がないようにしておかねばならない。コネクショニスト・モデルの現実性は,人間の真似ができるということにあるのではない。人間の原理を自ら示しているということにある。

     "似た入力に対して似た出力"という言い方は,実はミス・リーディングである。コネクショニスト・モデルは"似た入力に対して似た出力"をするのではなく,自らの入力−出力の対応で"似ている"を定義するのである。"似ている"はカラダから決まる。コネクショニスト・モデルはこの人間の原理を自ら示す。

     表象主義は,これとは逆方向に考える。即ち,"似ている"には根拠として形式が立たねばならない;カラダはこの形式に反応する;形式および形式へのカラダの反応に関して"似ている"を言うことができる──それはロジックとしてア・プリオリである;互いに似た形式に対しカラダは互いに似た反応をする。

     整理しよう。表象主義は所謂ロゴス中心の立場に立ち,ロゴスの方からカラダを──ロゴスに従うカラダとして──見ようとする。コネクショニズムは,カラダ中心の立場に立ち,カラダから定義されてくる世界を見ようとする(註2)


    (註1) Cf. Rumelhart,D.E.,McClelland,J.L.,and the PDP Research Group, Parallel distributed processing: explorations in the microstructure of cognition, vol.1,2, 1986.[甘利俊一(監訳),PDPモデル:認知科学とニューロン回路網の探索,産業図書,1989.]

    (註2) コネクショニストがコネクショニズムをこのように捉えているというのでない。あくまでもわたしがコネクショニズムに見ようと思う意義である。