Up 5.4.2 反-意味中心主義  


     意味中心主義は,虚心坦懐にこれを省みるならば,極めて特異な思想である。なぜ西欧の哲学者はそんなにも"対象の同一性",即ち"X=X"にこだわったのだろうか(註)。なぜわれわれの生活の根底に"X=X"がなければならないと思うようになったのだろうか。

     彼らはたかだか自分が生きた数十年の間に得た言葉で,生命の数十億か数百億年の歴史の到達点を理解しようとしたのだ。

     そして特に,表象主義。──伝来の哲学は,人の傾向性を"心"と捉え,その機制を"(内的)表象"のアイデアに拠って理解しようと努めてきた。そしていま,表象主義は哲学者の専売ではない。表象主義は,心理学に,認知科学に,そして数学教育学にも,浸透している。

     表象主義者は,表象による解釈の枠組みから漏れるものを容赦なく捨ててきた。捨てることを,"簡単なところから始める"という言い回しで合理化し,捨てたものの回収を見込んでいることをほのめかした。彼らはつぎのことに気づかなかった──また,気づいていたとしたら,とぼけていたことになる。即ち,"簡単なところから始める"と考えたとき,既に構築してしまっているのだということ。実際,彼らはつぎのことを前提していることになる:
      《目指す理論は,足場を組み立て,足場を補助に本体を構築し,そして最後に足場をはずす,という工法で構築可能である》
    よくよく銘記しよう。われわれはこの工法を信用する理由を何も持っていない。またつぎの可能性から眼を外さないようにしよう。即ち,表象主義の枠組みから漏れてしまうものこそ第一義的であるという可能性。

     却ってこう考える方が自然ではないか。即ち,"数十億/数百億年の歴史の到達点の奥深さの前には,人知(ことば)などものの数ではない;このような人知(ことば)に引き寄せて奥行きを理解することは,定めし錯誤である;あなたは〈表象〉を導入しないと理屈が立たないと言う;しかし理屈を通すよりも理屈を捨ててしまう方が賢明なのではないか;テクストにまるまんま──即ち,無媒介的に──反応できること,それはありそうなことだ;あなたは腑におちないと言うだろうか;しかし腑におちるものこそ錯誤なのではないか",と。

     このような物言いは無責任で問題回避に聞こえるだろうか。しかし"問題回避"を言うその"問題"がそもそも違うのではないか。そのような問題に対して連帯責任を要求するのは間違っているのではないか。

     "問題が違う"という論点を専ら焦点化する議論は読者を引きつけないだろうから,この論点への深入りは自重すべきであろう。しかしまた,"その問題は違うのではないか"という疑念のあり得ることを看過させるわけにもいかない。したがって,論点を忘却させないという意図の限りで,わたしはこの論点を以降も色々な形で適宜蒸し返すことになろう。


    (註) もちろん正しくは,この問題にこだわる人種が"哲学者"と呼ばれる,ということである。