Up 5.4.3 反-意味中心主義の図式  


     わたしは,意味中心主義の図式に対し,図式:

    を対置しよう──しかし,より適切には(§5.2.2)



    こころは,
     (1) テクストへの反応において,"表象"といったものが作られたり呼び出されたりするわけではない
     (2) 意味中心主義の図式にあった"意識"は"行動"のカテゴリーの中に解消される(註)
    である。

     "行動"に解消される"意識"には,意味-の-意識もある。但し,意識される〈意味〉というものがこの意識以前にあるのではない。あくまでも"意味を意識する"と表現したくなるような意識があるということである。

     わたしの第一の図式はすべてをブラックボックスにしているような見掛けを呈しているが,主旨は,〈内〉を抹消する──特に,媒介項としての"表象"を錯誤として抹消する──ことにある(よって第二の図式の方がよい)。そこで特に,
    • 表象の形態を語ること(例えば"スキーマ"),
    • テクストに対応する表象を語ること(例えば"授業分析"),
    • テクストが表象に変えられるプロセスを語ること,
    • 表象によって行動を説明すること,
    そのような試みが,出発を誤っているという理由で,すべて錯誤であることになる。

     この帰結がきつ過ぎると感じられるとしたら,それはとりもなおさず,意味中心主義がきつ過ぎるということなのだ。(意味中心主義は一つの根本的な原理であり,そのためにこれがコケたときの波及効果は甚大なものにならざるを得ない。)このことはよくよく理解し,銘記しよう。反-Xがきつくなるのは,Xがそもそもきついからなのである。


    (註) "言葉を口に出さないで言うことと,口に出して言うことの間に本質的な違いはない"──これと同じ主旨で"意識"は"行動"から区別されるものではない。