Up 算数教育通信:算数の授業研究の進め方について 作成: 2012-09-15
更新: 2012-09-15


『石川算数』No.49 (1993.2), pp.3-10

算数の授業研究の進め方について

宮下 英明 (金沢大学教育学部)


    0 はじめに

     本誌の読者は,何らかの形で算数の授業研究に関わり合わねばならない人たちでしょう。日々の"教材研究" も授業研究ですし,学校研究とかその他のグループ研究の形で算数の授業研究に取り組むこともあるわけです。そこで今回は,算数の授業研究への取り組み方,進め方について,一つの私見を述べてみることにします。

     あくまでも私見であることを強調しておきます。わたし自身,正反対の見解に同時につくことができます。

     実際,最近つぎのようなことを強く思うようになりました。即ち,日常語では,"X" と主張することも"Xでない" と主張することも同じように正しく,また同じように誤っているだろうということです。実際,"X" と主張することが普通であるときに"Xでない" と主張することで,これまで隠されていたことが見えてくる可能性があります。要するに,ことばは真偽を述べているのではありません。ことばは,単にきっかけを与えるだけのものであると思われます。ひとに対してものを言うことは,ひとに対して笑ったり,手をあげたりすることと変わらないということです。(笑ったり,手をあげたりすることに真偽が述べられていると考える人はいないでしょう。)

     このような布石を打っておいて,今回つぎのような命題を立てることにします:
      《おいしいものが栄養のあるものであり,食べさせるに足るものである
       ──まずいものには栄養はない》
    そしてこの意味で,
      "楽しい算数──<辛抱>からフリーな算数"
    を算数の授業研究のゴールに据えようと思います。


    1 おもしろさ/おいしさへの肯定

     わたしたちのこれまでの価値観には,忍耐や正義の称揚と裏返しに,おもしろさ/おいしさを好ましく思わない傾向がありました。

     いま,おもしろさ/おいしさに対する否定的な態度を,《貧しい時代の倫理観》というように解釈してみましょう。実際,貧しさに無縁なおもしろさ/おいしさは,貧しさを合理化するためには否定されねばなりません。

     言うまでもなく,貧しさを合理化する価値観によってこれからの時代が導かれるのは(実際には,前進が拒まれるのは),全体にとって不幸なことです。

     これからの時代に向けては,おもしろさ/おいしさを第一に考える姿勢の方が正しいように,わたしには思えます。《おもしろいものこそが内容のあるものであり,おいしいものこそが栄養のあるものである》──このように考え方を改めることの方に,今日的なチャレンジがあると思います。

     この意味で,"算数は今日の生活水準に見合ったおもしろさを獲得しているだろうか" ,というように考えてみましょう。もし獲得していなければ,今の子どもにとって算数はおもしろくないはずなのです。そしてこのときには,教室で子どもが算数に対しておもしろさを表明することがあるとしたら,それはむしろまずい事態── "どこかおかしい"──ということになるでしょう。


    2 学習者の優位性

     "教える" という言い方には,教師を特権化する響きがあります。しかし,"指導の全てはおもしろがってもらうことの上に可能になる" という考え方をするとき,教師はひどく弱い立場の者であることになります。おもしろがるか否かは学習者の勝手ですから,学習者の方が優位に立つわけです。教師と子どものこのときの関係は,売り手と買い手の関係に似ています。

     《"おもしろくない" を理由に子どもが算数をしない》という事態に対しては,悪いのは子どもではなく教師だと考えた方が,チャレンジがあります。おもしろくないのに算数をする子どもは,動機が不純か,あるいは不自然に動機づけられている,と考えてはどうでしょう。このように考えれば,教材研究に純粋に取り組まざるを得なくなるからです。


    3 "楽しい算数"

    3.1 "楽しい算数"の実現とテクノロジー

     "算数のおもしろさ" は,やはり,《新奇なものを経験するおもしろさ》と考えておけばよいと思います。即ち,"こんなことが存る/起こるのか!","こんなことができるのか!" といった感動に導かれるおもしろさです。

     逆に,"こんなことが存る/起こる!","こんなことができる!" が授業で子どもに伝わらないとき,"算数はおもしろくない" となります。

     さて,算数のおもしろさを伝える技は,専ら個人技に帰すようなものでしょうか? 《あるテクノロジーをまって初めて成立するような技》だとしたらどうでしょう。

     《算数を上手に伝える技は,これまでのテクノロジーの水準では手の届かなかったものである》というように考えるとき,§1で述べたところの"貧しさ" とか"生活水準に見合ったおもしろさの獲得" という問題が立つことになります。

     テクノロジーが何に効いてくるかというと,それは伝達メディアです。

     伝達メディアによって学習者の負担や学習効率が違ってきます。文字がメディアであるとき,学習は負担の大きいものになります。文字は,時間に対する情報効率が悪いのです。文字をメディアとする学習では,辛抱が要求されます。

     わたしは,このような辛抱の要求を,社会の貧しさの現われと見ようと思います。"何かよいものを得るためにはそれ相応の苦労をしなければならない" というのは,貧しい社会の倫理観に過ぎません。《色々なよいものが簡単に得られる》──これが"生活の進歩" の方向です。

     わたしは,算数科も当然この流れに入るべきものと考えます。《学習者が辛抱から解放されている算数》──これがわたしのいま求めているものです。


    3.2 マルチメディア

     わたしは,教材が"マルチメディア" 化していくことで,《学習者が辛抱から解放されている算数》が可能になるのではないかと考えています。

     "文字メディアがマルチメディアに変わることがなんぼのものか!" と考える人はいないでしょう。文章と画像の違い,静止画と動画の違いに,しばし思いを致して下さい。

     ちなみに,文字に崇高なものを感じなければならない理由は,何もありません。文字は"貧しい社会" のメディアとして普遍的であったに過ぎません。

     教材の"マルチメディア" 化は,差し当たっては教材のアニメーション化です。アニメーションはこれまで,指導メディアにはなり得ませんでした。ともかくそれは,個人の手に及ぶものでは全くなかったのです。しかし今日,これの開発環境を《パソコン+アニメーションソフト》という形で個人レベルで手に入れることができるまでになっています。


    4 授業

    4.1 "授業" の意味

     授業とは,一つのシステム──学習者のある変容を獲ち取るためのシステムです。

     授業の目的は子どもの変容であり,教師が立派な姿で立ち現われることではありません。実際,目的のために,教師は自分をおとしめることを進んでやるわけです。

     例えば,十のうちの一しか言わないことは嘘をついたことになるとしても,伝わるのは一だけでしかもそれを言わないよりは言った方がよいとなれば,教師はその一を言うでしょう。教師としてものを言うことは,真理を伝えることとは違うのです。

     授業をセールスと見なしてはどうでしょう。売れてナンボです。買い手はわがままがいいのです。わがままが健全な状態であり,売れないのは自分が悪いのです。セールスの手練手管以外のやり方で買い手を"指導" するのは,卑怯です。──このように考えた方がチャレンジのし甲斐があるでしょう。

     教師は学習者に対して弱い立場にあります(§2)。その弱い立場から勝利を得るために構築するシステムが授業です。だから,授業研究はハンパじゃできないのです。


    4.2 授業の評価

     授業は,基本的に,授業目的達成の度合と授業効率の二つを観点に評価されることになるでしょう。

     目的達成の度合とは,学習者の変容として意図していたものがどの程度実現できたかということです。これは"テスト" によって評価されます。実際,"テスト" は学習者の能力テストである以前に授業の評価テストなのです。教師の方が試されているのです。

     授業効率は,授業時間,設備,経費等を指標に判定されます。この効率は目的達成と独立な次元ではありません。効率的であることは目的達成に関連します。実際,効率の悪い授業は学習者の負担を多くします。効率は効果と直結するわけです。


    4.3 学習者の変容

     算数科で狙われている学習者の変容とは,どのようなものでしょうか? 可能性として,以下のものが上げられます:

    (1) 数学を知っていくこと。では,知るのは何のためか? 数学が要る日常生活を過ごせるため,数学を知っている他の人と連帯できるため,あるいは数学を必要とする仕事に就けるようになるためでしょう。

    (2) 論理的な物言いができるようになること。ことばの運用において論理性にこだわりをもち,慎重になること。

    (3) 〈存在〉──"色即是空・空即是色" ──の問題意識をもち,深めるようになること。


    4.4 道具の運用

     授業を構成しているものは,詰まるところ,道具とその運用です。"授業" として〈存る〉ものは道具("教具・教材")の運用だけです。道具の背後に主題が〈存る〉と思うのは幻想です。──もちろんわたしたちは主題を想定していますしまた想定せずに授業の構築はあり得ないわけですが,ともかく,〈想定されている〉は〈存る〉ではないわけです。


    5 授業のタイプ

     授業は,大きく分けて
      (a) 提示型
      (b) 発見型
    の二つのタイプで考えることができます。

     提示型というのは,教師が何ものかを提示し,学習者がこの提示から何ごとかを学ぶというものです。発見型というのは,教師が仕組んだ道を学習者が歩き,そこで何ものかを発見し,そしてこのような過程全体を通じて何ごとかを学ぶというものです。

     この二つの最も大きな違いは,提示型においては学習者が基本的に受動的であるのに対し,発見型では少なくとも気分的には能動的でいられるということです。

     つぎに,それぞれのタイプの授業を設計する際の考慮点を述べてみることにします。


    5.1 提示型

    (1) 授業は,シンプルに構成すること。

     学習者は受動的な姿勢を保ち続けることで既に苦痛を感じています。このうえ授業の構成が複雑になったら,即リタイアです。また,複雑な構成は授業を失敗に導く危険があります。教師の不手際は授業を回復不能なまでに壊してしまうことがあります。ともかく,構成を複雑にしなければならない理由はありませんし,複雑を回避する手は必ずあるものです。

    (2) 学習者の情報受容には限度がある。

     教材については受容しやすい大きさおよび密度を考えなければなりません。内容の詰め込み過ぎ,過度な装飾をしないよう注意します。

    (3) 基本的に,授業には一つの本流がなければならない。

     学習者の意識には"いま何が問題か/何が解決されたか/どこに進もうとしているか" がつねに明らかになっている必要があります。この本流に,これを補足する流れが必要に応じて加えられます。この場合,学習者が本流と見紛うような流れをつくらないよう注意します。

    (4) 教師は,学習者が自分のいる場所を見失わないよう配慮すること。

     学習者に自分のいる場所を銘記させるために,あるいは再確認させるために,誇張して述べたり,反復して述べたり,言い換えを用いたりということをします。この意味で,ポイントを明確に示すよう努めます。


    5.2 発見型

    (1) 授業に,相手を引き込む魅力のあること。

     発見型の授業は学習者の自発性に委ねられるわけですから,魅力が無ければ始まりません。
     興味を喚起されない子どもは,他の者が局面を開いていってくれるのを待とうとします。この傾向は伝染します。

    (2) 操作活動がシンプルで,わかりやすいこと。

     ある程度見通しをもてて,段階的に結果が得られるようでなければ,学習者は自分の実践に自信が持てず,待機する側にまわってしまいます。
     ここを越えれば何かが見える,という期待を持たせるような構成になっていることが必要です。
     学習者に必要な負荷をかけることと,要らぬ負担をかけることとを区別しましょう。ともかく,学習者が難しそうだ,面倒そうだと思い,作業に入ってくれなかったら,どんなに高密度な内容を用意していても意味をなさないわけです。

    (3) 目的から逸れないよう注意する。

     学習者が作業にのってくれること,そのために興味をもち,また活動をたのしんでくれることは,授業のゴールに至るための要件であって,目的ではありません。目的は,あくまでも,学習者の一定の変容です。


    6 指導法

    6.1 情報受容の能力と傾向性

     授業構築に際して先ず肝に銘じておくべきことは,言ったり示したりは〈伝わる〉ではないということです。多く言ったり示したりすればそれだけ多く伝わる,詳しく言ったり示したりすればそれだけ詳しく伝わる,というものではありません。生身の人間の情報受容には,限度と傾向性があります。

     表現や提示,操作はシンプルでなければなりません。


    6.2 中心と周縁

     情報の受容は,《中心と周縁》という形に構造化できたとき,負担の軽いものになります。中心を核として周縁をこれから生成することに成功すれば,負担はいっそう軽くなります。

     実際の生活においては,負担の重いものはそのままでは捨てられます。したがって,《中心と周縁》のように構造化された情報受容のみが現実的なものだということになります。

     そこで,"一回の授業で教えられることはただ一つ" と考えた方がよいでしょう。その一つを教えるために,色々なことを周縁に配置するわけです。そして《この色々なことは中心を支える周縁である》ということは,学習者にもそのように受けとめられねばなりません。このようなわけで,スタートから結論までを貫く本道と,これを補う形の分岐が存在する構成が,授業形態の基本になります。

     周縁の配置では,中心を陰らせないよう注意します。この意味で,説明が過度になることにも注意しなければなりません。説明は,畢竟,横道にそれることです。説明すればするほどよくわからせることができる,とはなりません。──ちなみに,《説明に辛抱強く付き合ってくれる》ことを相手に求めてはなりません。相手が受け付けないのは自分が悪いのだ,というように考えましょう。

     操作は,特に,中心が陰りやすい局面です。したがって,わかりやすくシンプルであることがこれの基本です。


    6.3 感覚的

     数学は文字文化に属しているわけではありません。数学の内容はむしろ感覚的なものです。数学の伝達は,本来,《理念や思想を延々と述べ,相手を読者としてこれに付き合わさせる》というものではありません。

     算数の教具研究では,《人間の感覚を直接刺激するようなものを求める》という姿勢で臨めばよいでしょう。その方がチャレンジのし甲斐がありますし,得られるものも大きいはずです。

     感覚的であるということは,実は対時間の情報量効率が大きいということなのです。しかも,学習効率も大きいのです。"感覚的" は"表層的" とつながるのではありません。それは"生成的" とつながるのであり,むしろ"深層的" なのです。この意味で,感覚的であるとは情報整理性に富むということでもあるわけです。

     算数の教具は感覚的であるに越したことはありません。ただしこれを実現するには相応のテクノロジーが必要です。そしてこれまでは,この相応のテクノロジーがありませんでした。しかし今日,テクノロジーはわたしたちが求める水準に達してきています(§3)。


    6.4 主体性

     人は,長時間受け手であり続けることに耐えられません("長時間" は人に依ります)。したがって,学習者を受け手として固定する形では授業はできません。

     しかし,学習者に主導権を渡したのでは授業は成立しません。既に述べたように,授業は弱い立場の教師に勝利をもたらすためのシステムです(§4.1)。主導権を手放しては教師に勝ちはありません。

     "自分は主体的でいる" というように学習者に思わせる,これが手です。即ち,放牧の羊を囲いの中に追い込んでいくノウハウを使うわけです。自分から入ったと思わせることが,このときの要点です。

     この意味では,授業はたちの悪いだましのように見えます。実際,構造はセールスと同じです。相手にそれとは悟られないよう作為して,結論は自分で出したという思いを相手に持たせる──これがセールスの極意でしょう。


    7 主題研究

    7.1 主題研究

     先ず十全な主題研究があり,それから授業構築となります。言えば当たり前になりますが,意外と主題研究は見過ごされています。おそらく,
      "算数など自分は熟知している;問題は,どうやって子どもにわからせるかだ"
    という思い込みがあるのでしょう。

     しかし,算数科の内容は数学の内容です。算数の数学版(例えば,線型代数)を受けつけられないなら算数もダメということになります。──逆に,数学には算数に引き戻して学習できるものが少なからずあります。またこのような学習法は完全に正しいのです。

     主題研究をおろそかにして作った授業は,正直なもので,壊れます。(壊れたのが気づかれていないということは,壊れていないことではありません。)その授業構築に投入した労力は無駄となります。壊れた原因は出発にあるのです。

     主題は授業の目的,内容と重なりますから,主題がつかまれていないとは授業の目的,内容が明確になっていないということです。この状態で授業の構築に入るということは,本来あり得ません。

     机上のプランを十分に練ることが必要です。そのような余裕はないということであれば,少なくとも姿勢としては持っていましょう。


    7.2 主題と指導法

     算数の指導法は,あくまでも,算数が取り上げる数学的主題に従属するものです。学習者をおもしろがらせる指導法は,主題がおもしろい限りにおいて成立します。

     "苦い薬を飲ませるためにそれを甘く味付けする" を指導法の比喩にしてはいけません。これを受け入れると,算数の指導がとんでもなく安直になります。

     また,"苦い薬を苦いまま飲ませる" という指導法も,《貧しい倫理観》ということでここでは却下します(§1)。実際,安直さでは,上のものと変わりません。

     つぎのように考えることが,一等級のチャレンジです:
      《"指導法" の意味は"主題をわからせる手立て(演出)" であり,これ以上でも以下でもない;学習をおもしろいものにしているのは,主題のおもしろさである》

     しかし,算数の主題は本当におもしろいものなのでしょうか? 正直なところ,わたしには自信がありません。しかし,これがわたしたちの "立つ瀬" だと思います。これの他に "立つ瀬" があると考えるのは反動だと思うのです。


    7.3 演出の独走への足かせ

     主題研究を心にとめておくことは,指導法としての演出を独走させないことに効いてきます。演出のための演出を自ら戒めるようになります。

     実際,演出は効率的であることが一番なのです。作らずに済むものは作らないのがよいのです。必要な出費と無駄な出費を区別しましょう。


    8 授業設計の手順──共同作業の場合

     ここでは,授業設計が共同作業で行なわれる場合のその手順について述べてみます。但し,個人で行なうときはこれとは違ってくる,というのではありません。このときは,独りで全ての役割につくと考えればよいわけです。実際,共同作業でも,一人が一つの仕事というのではなく,いくつかの仕事を同時にこなすのが普通です。

     また,ここで "授業設計" として考えるものは,
      (a) 一つの授業の設計
      (b) 一つの単元を構成する複数の授業の設計
    の両方です。


    8.1 道具作り

     既に述べたように,授業は一つの《道具の運用》です。そこで,授業設計には道具作りがあります。しかし,道具の制作では道具の運用が予め見込まれています。したがって,道具作りは授業設計の一局面というのではなく,事実上授業設計全体と重なります。

     この道具作り── "教材作り" ──は,基本的につぎの手順で進められます:
      (1) 企画
      (2) 教材の設計と指導案作り
      (3) 教材の制作
      (4) 教材(パーツ)を授業(システム)へと組み上げる;検証,修正


    8.2 企画

    (1) 授業の目的と条件を明確にする。
     授業とは教師を勝ちに導くシステムのことです。そこで,教師が得たい勝利の内容が "授業の目的" になります。
     "授業の目的" として述べることは,学習者の変容です。"この授業の目的" を,《学習者の変容》という形で明確にします。

    (2) 学習者である子どもを把握する。
     子どもの傾向性や,子どもが置かれている状況を把握します。

    (3) 授業のタイプ(§5)を決める。

    (4) 授業の骨格を組み立てる。
     《道具と運用》という形で構想します(§4.4)。

    (5) 授業構築の工程表を作成する。
     ここでの "工程表" は,工程表そのものの他に,作業日程表,作業分担表を含みます。

    (6) 企画書にまとめる。


    8.3 教材の設計と指導案作り

    (1) 企画書に基づき,教材のアウトラインを構築する。
    (2) 企画へのフィードバック。
    (3) 教材の仕様書と指導案の二つにまとめる。


    8.4 教材(パーツ)の制作

    (1) 仕様書に基づき,教材をパートに分解して制作。
     制作過程では,仕様の前提となる企画書の主旨に沿っているかどうかを絶えず確認します。主旨から逸脱した教材は,授業を狂わせます。常に,全体を見通したシステム思考で行なうことが肝要です。
     この上で,仕様書に沿った構造になっているかどうかのチェックを入れます。制作の過程で制作者の意図によって仕様が変更されているおそれがあります。

    (2) 企画,設計へのフィードバック。


    8.5 授業(システム)の組み上げ

    (1) 教材(パーツ)を授業(システム)へと組み上げる。

    (2) 授業の検証。
     本番をイメージして客観的な検証に努めます。企画通り,目的達成のための機能が働きそうかどうか,逸脱した機能,冗長な機能がないか,チェックします。

    (3) 授業の修正・仕上げ。

    (4) 指導案を,授業のマニュアルとして完成させる。教材の仕様書を完全にして,指導案に付す。


    9 独自な指導体系

    9.1 独自な指導体系を推進する困難

     授業研究を進めて行くうちには,現行の指導体系との抵触という問題が持ち上がってきます。

     授業研究は本質探求的になる傾向があります。特に主題研究を重点的に行なう授業研究に,この傾向は強くなります。一方,現行の指導体系は,主題の本質をなぞるようには作られていません。むしろ,本質を隠蔽するような作り方になっています。(但しこれは一つの立場であり,差し当たり,いいとか悪いとかいう問題ではありません。)

     授業研究が独自な指導体系に向かい,現行の指導体系と抵触するようになるとき,どのような態度決定をするか──これは難しい問題です。

     独自な指導は,"独自" の意味と矛盾しますが,一つの教室,一つの地域という規模で済ませることができないのです。実際,指導のターゲットとする子どもたちは,社会の交通の中にあるものと考えねばなりません。したがって,その指導の実践は教育現場すべてに及ばねばならない道理なのです。こうして,独自な指導の実践を敢えて決意することは,現行の指導法を別の指導法にとり替える実践を決意することを意味します。

     したがって,独自な指導体系へのチャレンジとしては,差し当たって,その指導体系を構築することと,そしてその指導体系を世に認知させることの二つをしなければなりません。

     これの遂行には覚悟が要ります。本気にならなくてはできません。そして,本気を空回りに終わらせないための実行力も必要です。

     指導体系の構築は,もちろん容易ではありません。例えば,より本質探求的であるように指導内容を改めることにチャレンジしようとする場合,指導体系は自ずと系統的でなければならず,一つの授業,一つの単元という規模で終わらせることはできません。実践するときには,算数の領域全てに及ばずには済みません。

     しかしこの困難な指導体系の構築も,指導体系を世に認知してもらうことと比べるならば,まだはるかに容易と言うべきなのです。

     新しい指導体系の認知は,学問の問題ではなく,政治経済の問題なのです。現行の指導体系の改変がもたらす損害は小さくないのです。

     勝算を考えずに自分がよしとする指導体系を主張することは,"健康食品" の主張に似ています。"健康食品" がわたしたちの今の食物に取って替わるだけの規模に達していないうちは, "健康食品" の主張は迷惑なだけなのです。


    9.2 指導体系の構築

     自分の指導体系を構築していないことには,現行と対峙するはできません。持っていない者が持っている者を批判したり揶揄するというのは,世の中にこれの色々なバリエーションがあるとはいえ,自分でやるのはやはり格好の悪いものです。

     ここで構築せねばならないのは,実現可能な指導体系です。"実現可能" とは,"皆に実行可能" でありかつ"皆が実行したく思う" ということです。そして"皆が実行したく思う" ためには,その実行によって子どもが今以上につらくなることがあってはなりません。子どもに苦労させることに,教師の才覚は要りません。楽させることの方に才覚が要るのです。


    9.3 社会的認知の獲得

     どのようにして社会的認知を得ていくかという問題には,わたしは答えられません。定石があるかどうかも不明です。運もあるでしょう。だから,"機をとらえてできるだけのことをする" ということしか言えません。即ち,色々な研究発表の場で積極的に自分を売りこむこと,これを繰り返す,ということです。

     なお,ある程度理論武装ができていないと,もの申す以前に却って指導されてしまうことになります。もちろん指導されてもいいのですが,人間力学的に今後不利に作用するということがあり得ます。


    9.4 教科書の作成

     独自な指導体系の構築では"独り善がり" を警戒しなければなりません。実際,理論を独走させ学習者に無理を強いる授業をつくってしまいがちです。こうならないための方策の一つとして,ここで教科書の作成を勧めたいと思います。

     先ず,甘えを自らに許さなくなります。指導案の作成ではどうしても甘えが出て来ます。"授業としてはつらいけれども,いい手が見つからないからこれでやってしまおう" になりがちです。これが,教科書作成のスタンスでは無くなります。"ひとは自分のこの甘えを許さない;それどころか却って,この甘さを突いてくる" を肝に銘じて事に当たるようになるからです。

     つぎに,教科書は子どもに読めるものでなければなりません。このことから,子ども本位のスタンスに自然に即くようになります。

     また,教科書にはボリュームの制約がありますから,これにより現実的なスタンスに自ずと即くようになります。

     なお,教科書の作成は,自分たちの指導体系を世に認知してもらうためにも必須です。独自な指導体系に対してひとが考えるのは,それが現実的かどうかということです。このような人たちに対して教科書の提示は説得力があります。


    9.5 "楽しい算数"

     独自な指導体系に勝算が見えるとき,それは"楽しい算数" になっているはずです。その指導体系が可能ということには,先ず,子どもがその指導についてくるということがあり,そしてそれは,"楽しい算数" になっているということだからです。

     既に述べたように(§3),"楽しい算数" 実現の可能性は新しい指導メディアの導入に見出すより他ないと思います。今日,《指導メディアのマルチメディア化》をパソコン環境下で課題化できるようになってきています。"楽しい算数" を追及する意味から読者が新しい指導メディア獲得の課題に取り組まれることを,わたしは勧めたいと思います。