先ず,“心”は探して求められるようなものではない。存在するのは,“心”ではなく,“心”について語るという生活形態である。そして“心”について語るとき,ひとは“心”について語っているのではない。単にその言表によって或る状況を展開しようとしているに過ぎない。 よって,“心とは何か?”という問いに対する正しい答え方は,“心”について語るという生活形態がどのようであるかを述べることである。実際,“人の心について語ることは,端的に言って,人の生を構成する出来事が秩序づけられるある仕方について語ることに他ならない”(Gardner,1985,pp.64,65)のである。 “心”の述定がこのように捉えられるとき,それは内的な出来事の報告ではなく,行動に関する hypothetical あるいは semi-hypothetical な言明ということになる(Ryle,1949,pp.50,86-89)。即ち,
さらに,《心=傾向性》と規定することには,つぎのような含意はない:
(註1) したがって,P.Geach のつぎのような論難は,ライル批判(ライルを困らせるもの)にはならない:
(Geach,1957,p.23) When Ryle (1) explain a statement of an actual difference between two men's mental states as really asserting only that there are circumstances in which one would act differently from the other, and apparently (2) holds that this could be all the difference there is between the two, he (3) is running counter to a very deep-rooted way of thinking. When two agents differ in their behavior, we look for some actual, no merely hypothetical, difference between them to account for this ... (Geach,1957,p.23) Geach の例は,ライル批判の一つの顕著な型を示している。即ち,ライルの主張には《Pに対して一つの仮言命題が一意に対応する》が含意されていると見なし(誤解し),これを論難するというものである。 (註2) 実際,“心”を語る言表Pを仮言命題の形に述べ直すとすれば,一つの仮言命題で言い尽くせないことは明らかであるから,仮言命題の連言の形で述べるということになる。これらの仮言命題は,Pの〈外延〉(“もし状況が・・・・ならば・・・・のような行動が発現する”のレパートリー)の表現になるものである。しかし,Pの〈外延〉は,予め定まっているものではなく,生活において生成される。しかも,連言の表現では,各仮言命題が蓋然性の余地がないまでに厳密にされていなければならないが,このような事態は,不可能であると言う以前にナンセンスである。 |