いま,ニューラルネットワークとわれわれの間の通約不可能性は,基本的に,学習者と教師の間の通約不可能性と同型であると考えてみる。このとき,教え方が悪いのかそれとも相手のアタマが悪いのかについては,通約不可能性により判断が立たないということになるから,命題:
が導かれる。
《教師は生徒が学んでいるものを知り得ない》
《教師は生徒の言おうとしていることを知り得ない》
といった命題も導かれる。
この不可知論は,
という事実と排反するものではない。実際,この不可知と可知は,ライル/行動主義の謂う“傾向性”の観点から,両立させることができる。即ち,教師は──通約という方法に拠ってではなく──傾向性を知るという形で生徒を知るのである。
こうして,PDPモデルは行動主義と一緒になることで,学習主体モデルとして十分なものになる。
子どもに対する教師の対応は,経験主義的である。そして経験主義──傾向性の信用──は,また行動主義である。そして行動主義はこれまでモデルをもっていなかった。したがって,コネクショニスト・モデルは,教育実践者の現実のあり方をそのまま肯定するはじめてのモデルと言える。同時に,われわれは教育における〈経験〉がはじめて科学的主題になった一つの形態を,ここに見るのである。
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