6 不可知論


     不可知論は,決して忌避すべきものではなく,むしろ科学的態度として受容せねばばならないものである。この認識を欠くとき,ひとは容易に文法的幻想(非科学)に陥る(註1)

     この観点に立てば,ウィトゲンシュタインによる“言語ゲ−ム”の概念の導入は,不可知論的地平の導入と見なせる。その狙いは,ある種の認識論的問題を不可知論に追い込んで阻却してしまうことにある。“言語ゲーム”と身分づけることは,一面では,分析を拒むことに効いている。実際,言語ゲ−ムを分析しようとしたら,《ある時点における言語ゲ−ムは,単一ではなく,無数の言語ゲ−ムの束である》という認識を持たねばならない。そしてこれは,何も述べていないに等しい。

     数学教育学における不可知は“生活者”としての人間についての不可知である。そしてこの“生活者”を不可知としているものは,〈歴史〉である。

     “生活者”は二重の歴史をもつ。即ち,生体としての歴史と社会的存在としての歴史である。さらに,生体としての歴史も,二重構造になっている──即ち,種の歴史(何十臆年?)プラス個の歴史として。

     ひとの行為は,一つの〈歴史の到達点〉の行為である。そしてこの行為によって,ここまでの歴史がまた一つ積み上げられる。わたしがいま為していることは,何十臆年(?)にわたる一つの歴史がいま為していることなのである。

     “生活者”の歴史は,われわれが扱うには,途方もないものである。それは,われわれにとって端的に不可知である(註2)。このようなものに“なぜ”は問えない。“なぜ?”は,この場合,拙い問いである。

     われわれができることは,“なぜ?”に説明で答えることではなく,“なぜ?”を“いかに?”に替えて,記述で答えることである。そして,“いかに?”を拒否しかつ概念的説明も拒否する“なぜ?”に対しては,(ウィトゲンシュタインのように)“端的にそうだから”と答える他ない。



    (註1) 不可知論に対立(敵対)するのは,科学ではなく,挑戦的精神を一般的に評価するモラリズムである。

    (註2) Simon は,“nearly decomposable system" の概念を導入して,現実的なシステムの途方もなさは見掛けのものであり,手懐けることは不可能ではないという主張をした(Simon,1962)。実際,この議論で彼は彼自身の計算主義的なアプローチを合理化しようとしたのである。

     即ち,現実的なシステムは,“一定の時間内での発生完了”という制約のために,nealy decomposable ──そして恐らくそれ以上に,階層的──でなければならない;そしてそのようなシステムの機能は必然的に計算的(computational/artificial)である,というのがその理屈である。

     しかし,このオリエンテーションは実効しない。何故なら,あるシステムがわれわれの目に decomposable に見えるとしても,われわれはその見えをわれわれの文法的幻想と区別し得ないからである。実際,表象主義/計算主義を文法的幻想と見なすとき,Simon の実践を一貫して導いているものは彼の文法的幻想であることになる。

     しかも,Simon の理屈には,目的論的である故の奇妙さが伴う。例えば,“雲”というシステムも,nearly decomposable に理解されてしかるべしとなる。