はじめに
ここしばらく,「マルチメディア」の語が色々なマスメディアの上に登場し人びとの話題に上っている。実際のところ,「マルチメディア」は「デジタル革命」の意味での「メディア革命」の一主題である。そしてこの「革命」が人々の関心をひくのは,「産業革命」としての進行が展望されているからである。
「マルチメディア」に対する切り口は,色々であり得る。「マルチメディア」の意義は人の関心に対して「開いている」。本論考では,「情報の高品質化」,「情報の自然なあり方」という切り口で,すなわち「コミュニケーションの良質化」という観点で,「マルチメディア」を数学教育に関わるる主題として取り上げることにする。わたしの見るところ,数学教育は今日低迷しており,そして数学教育の最も当てにできそうな活路が「マルチメディア」なのである。
数学教育の今日の低迷は,本質的なものである。それは学習者の数学に対するつぎのような思い・感じ方の一層の顕在化に因っている。すなわち,「わからない」,「おもしろくない」,「使わない」という感想である。
「使わない」という感想は,ある意味では正しく,またある意味では誤っている。すなわち,消費者というスタンスを選び,数学を使う生産行為から離れることにすれば,確かに数学を「使わない」で済ませられる。しかし,数学には「対象把捉の形式」の意義もある。この形式を知らずに過ごすことが損にならないかどうか。
しかしいずれにせよ,数学教育は「わからない」と「おもしろくない」に対して根底的に有効な処置をしていかない限り,低迷を余儀なくされる。そして現状はどうかというと,「負担軽減」という形での対応に終始している。言うまでもなく,これは「数学離れ」への根底的な対処にはなっていない。それはつぎのような悪循環を招く:
「数学離れ」 ─→ 「負担軽減」=学習内容の希薄化
↑ │
│ │
└────「わからない・ ←────┘
おもしろくない」
数学教育のこのような状況で,「マルチメディア」はいわば渡りに舟のように見えてくる。「マルチメディア」は,「情報の高品質化」・「情報の自然なあり方」の意義において,「わからない」と「おもしろくない」に対する根底的で有効な解答になり得る。なぜなら,「マルチメディア」は既存の教授/学習メディアの貧しさを示唆し,「わからない」と「おもしろくない」をメディアの貧困に帰着させる概念になるからである。
新しいメディアの獲得とは,新しいコミュニケーション能力の獲得のことである。本論考の主題は,新しいコミュニケーション能力の獲得として「教授/学習メディアのマルチメディア化」が今後数学教育の第一級の課題になることを,一つの構造的帰結として示すことである。振り返って見ると,ここしばらくわれわれは「既存のものを工夫して使う」というスタンスの教育的議論をあたりまえとしてきたことになる。いまは,「新しいものの導入で活路を開く」という活きのよいスタンスで教育を論じ得る時である。
I 数学教育の低迷/退行現象
今日,数学的知識/思考法が多様な分野でますます必要とされている一方で,逆説的に,学校現場における数学嫌い/無関心,落ちこぼれ現象が一層顕著になってきている。わからないので,そしておもしろくないので,数学嫌い/無関心になる。わからないこと,おもしろくないことが,学習者にとってストレスになる。多くの生徒が数学学習に疲労している。数学学習において,人間疎外が生み出されている。
数学嫌い,数学学習への無関心を前にしては,指導がどうしても及び腰になる。そして,〈教える→わかる〉ではなく〈躾ける→できる〉の方に赴きやすい。ところが〈躾ける→できる〉で切り抜けられるのは当座であって,早晩破綻する。そればかりでなく,数学学習を誤解させる。そして以上が悪循環する。
「数学学習の負担軽減」が,「数学離れ」に対する行政サイドのここしばらくの主要な対応である。しかしこれは学習内容の希薄化と方向を同じくするものであって,「数学離れ」との悪循環を招くことが予想される。
実際,「わからない」ことが問題なのであるが,学習内容の軽減は「わかる」と直結しない。なぜなら,個々の主題は互いに独立しているわけではないからだ。一つの主題の理解は,この主題を包含する一つの体系を理解することである。したがって,「内容の軽減」は減算ではあり得ず,全体の「希薄化」になってしまうのである。そして言うまでもなく,「内容の希薄化」で「わかる」は得られない。それは「わからない」を進行させるだけである。
II 「生成的な理解」の実現に向けて
数学が「できない」人は,先ず,何を学習しようとしているのかを知らず,そしてどうすることが「学習」なのかを知らない人である。そしてこの点において,圧倒的に多くの人が算数/数学の「できない」人である。
学習しようとしている主題は,構造化された知識である。そこで,学習のゴールは,構造生成的な理解である。図式化して言うと,一つの核から「理屈」を使って広がりをつくれること,これが学習のゴールとなる理解の形である。つまり,「一(いち)」と「理屈」によって「十(じゅう)」を導けることが,「数学ができる」の形態である。「一」は,ある場合は理論の核であり,またある場合は原初的・生活的なアイデアである。
しかし,多くの学習者はこのことを知らずに過ごしている。そして学習の勝手がわからないために,「一」と「理屈」を飛び越して,末端の「十」の方をそのまま覚え込むこと(「暗記」)を学習の形態にしてしまう。すなわち,問題ごとに解法を覚えるとか,定理や公式を適用の仕方とともに覚えることを,学習としている。解法の論理には無頓着であり,定理や公式が何を述べているか,どんなふうに出てきたかということにも無頓着である。要するに,「根」や「幹」がなく「枝葉」のみがあるという状態なのである。このような学習は長く続くはずもないし,またおもしろいはずもない。早晩破綻が来る。
「知識」,「理解」,「学習」は一体のものである。「理解」形成の実践が「学習」であり,「理解」の様相がその人の「知識」である。そして学習のゴールは,「知識」という語を使えば「構造化された知識」であり,「理解」という語を使えば「生成的な理解」である。
いわゆる「論理的思考」も,この「構造化された知識/生成的な理解」の発現するところである。
われわれはここで,この「構造化された知識」,「生成的な理解」の実現をコミュニケーションの課題として捉えるとしよう。このときコミュニケーション・メディアを問題として立てれば,「マルチメディア」が今日的な課題として自ずと浮かび上がることになる。そしてこの課題の直接的・具体化な形は,「数学の主題の映像化という方法で,学習者に生成の核をつかませる」である。
「映像化は昔からの実践的テーマである」というようなもの言いをしてはならない。マルチメディアを文脈にして「映像化」を課題化するときには,これまでの「映像化」はあまりにも貧し過ぎて「映像化」と呼べる代物でなくなるだろう。われわれは歴史上初めて「映像化」の課題を現実的なものとして立てることができる。それは,今日の技術の飛躍的な進歩によるものである。
ひるがえって,生成的な理解を実現する映像を実際に作成し蓄積していくことが,数学教育者の今日緊急の課題である。
III 「快楽としての数学」の実現に向けて
3.1 ファンタジーとしての数学
「一般者のための数学」が企図されるときには,一般者にとっての数学の意義について既になにがしかの確信がもたれていることになる。さて,一般者にとって数学はどのような意義をもつか。またその意義は「一般者のための数学」を企図するに値するのか。
わたしは,数学が一個のファンタジーであること,これが一般者にとっての数学の意義であり,「一般者のための数学教育」の根拠(「立つ瀬」)であると考えたい。実際,《人を洗練し,自由にする》が,ファンタジー一般の教育的意義である。ファンタジーが《人を洗練し,自由にする》のは,ファンタジーがリアリティを「決める」からである。ファンタジーの質が,人の洗練されている度合と自由の度合を定める。「どのようなファンタジーをもっているか」が,人の資質の一つの見方になる。そして数学は,このようなファンタジーのうちのきわめて良質なものの一つである。
3.2 快楽としての数学
一般者に対する学習の解発(リリース)は,学習内容そのものの魅力による他ない。特に,今後数学学習は,「楽しい,快い,好ましいから学習する」という形でのみ可能になる。数学を操ることが楽しみになるという形でのみ,《数学を操る》という行為が一般者のものとして成立する。
このようなことは可能か──これが可能でなければ数学教育の「立つ瀬」はない。わたしは可能であると言いたい。数学はひとの快楽になる。それは,数学がひとつのファンタジーだからである。
つまり,「人を洗練し,自由にする」ことがファンタジーとしての数学の道具性なのであるが,この道具性の実現は数学が楽しまれることと表裏一体なのである。内容のおもしろさは,その内容の「人を洗練し自由にする」という道具性と表裏をなす。自分が洗練され自由になる過程が「内容がおもしろい」という意識で楽しまれるということである。
数学の「おもしろさ」は,「娯楽(エンターテインメント)」という語から連想される種類のものよりは,むしろ「快楽」に近い。特に,一般者のための数学教育メディアを特徴づけることばは「娯楽メディア」よりは「快楽メディア」がふさわしい。「一般者のための数学教育」の目指す形態も「エジュテインメント」(「エジュケーション」と「エンターテインメント」を合わせた造語)とはズレる。
重要な点なので,このことは強調しておこう。案出されねばならない指導法は,「おもしろくない内容をおもしろく演出する」指導法ではなく,「内容のおもしろさを損なわずにそのまま相手に伝える」指導法である。数学学習を「快楽」として実現することが「一般者のための数学教育」実現の形であり,特に,指導内容の「快楽」を知っていることが,「一般者のための数学」の指導者の条件になる。
IV 「数学のデザイン」の課題化
4.1 「数学のデザイン」の課題化
数学がコミュニケーション以前にあるわけではない。「コミュニケーションの上で数学が実現されている」と言うのが正しい。特に,コミュニケーションの形態として現れているもの,メディアとして現れているものが,数学のすべてである。この意味で,数学のコミュニケーションを問うことは数学の実現形態を問うことと同じである。したがって,数学のコミュニケーション向上の課題化は,「数学メディアの開発」としての「数学のデザイン」の課題化になる。
4.2 デザインの人依存性
最良のデザインというものがあるわけではない。デザインの良し悪しは人に依存する。成長の段階によっても世代によってもデザインの適否が変わってくる。また当然,状況によってもデザインの評価は変わってくる。
例えば,入門者に好ましいデザインは専門家が好むデザインではない。入門者が求めるのは,わかりやすさである。そして,「わかる」を既に卒業している専門家が求めるのは,機能性である──この機能性には,保守に都合がよいということも含まれる。
4.3 数学の伝統的デザイン
(1) 機能性/経済性優先のデザイン
合理主義的な機能性/経済性を一層強化するというのが,数学発展の一つの方向性としてある。特に,「論理的な無駄を省く」ことが,伝統的に数学のデザインの規準となってきた。例えば,公理主義──「公理・定義・定理・証明」の文体──や構成主義など。
この規準を徹底させるとき,「形式的言語体系」というのが数学のデザインになる。これはコンピュータの機械語のようなもので,よほど特殊な人でなければ扱えるものではないし,また,扱えてもこれを生産的に使いこなすことはできない。われわれが目にする数学も,これを色々なレベルで人間に近づけたものであり,機械語に対する高級言語のようなものである。
ちなみに,一つの言語に対するそれの高次言語は,《表現のあるかたまりを,一つの意味で括られるモジュールと定め,これに言い回しを与える》という形で作られる。これは,一層上の意味論を導入するということでもある。
(2) 文字テクスト
これまで数学は,基本的に,文字テクストとしてやりとりされ保守されてきた。そして実際,人は数学を文字テクストとしてイメージすることに慣れている。しかし,文字テクストは数学の一つの実現形態に過ぎない。それは歴史の一所産として相対化されるべきである。
4.4 一般者指向の閑却──専門家のためのデザイン
文字テクストをメディアとし機能性/経済性を徹底的に押し進めるというのが,数学の伝統的スタイルである。そしてこのスタイルのさらなる追求と数学自体の規模の拡大は,数学から一般者をますます疎外し数学を専門家に属させることと方向を同じくしている。
専門家とは,機能性/経済性優先の数学デザインのメリットを享受できるように,また文字メディアから書き手がそれに込めたイメージ(意味)を再現できるように,自身の身体を形成できている者のことである。
「形式的言語体系」へと向かう数学の進化は「論理マシン」としての進化と見ることもできるが,現在は,人がこのマシンとしての数学に適応することを強いられている。数学を自分の自由にするためには,相当な訓練期間と努力を覚悟しなければならない。もちろん,「機械好き」という人種はいつでもおり,彼らにとって努力は努力でない。しかし,圧倒的多数においては,数学(マシン)に自分を合わせることは苦痛である。これまでの学校数学は,一般者向けの数学にはなっていない。即ち,人間に合わせた数学にはなっていない。そこでは依然として,数学(マシン)の方に身体を合わせることが課せられている。
人びとはいつからか,数学というマシンに自分の身体を適応させるのが当たり前と思うようになっている。「自分の身体に数学(マシン)の方を合わせる」ということに思い及ばなくなっているかのようである。
4.5 文字メディアの貧困
文字テクストに表現されたアイデアをその文字テクストから再現するのは,容易なことではない。実際,イメージを既に持っている者のみが文字からイメージを再現できる。イメージが白紙の者は,イメージを仮構し,それが通用するかを文字テクストとの照合で試しつつ修正していくことになるが,イメージの仮構そのものがとてつもない跳躍なのである。
今日,一般者は文字テクストからイメージを再構築する能力を試される必要はない。われわれは,イメージをより直接的に表現できるメディアを獲得しつつあり,一般者はこの恩恵を受けるべきなのである。文字の操作が数学活動であるわけでもないし,文字が数学活動で不可欠のメディアというわけでもない。数学上のコミュニケーションの伝統的メディアが文字であったということに過ぎない。そして実際,「数学的主題の直観」という点に関して文字は極めて不透明なメディアであり,役不足なのである。
4.6 一般者指向の方法──数学のマルチメディア化
人から最も離れた数学の形態──最も純粋と想定される数学の形態──は,形式的言語体系である。このような数学を一方の極において考えるとき,「数学の高級言語化を進める」というのが,数学を人(一般者)に近づける方法になる。数学の高級言語化は,数学から離れることではない。それはどこまでも数学である。それぞれが異なる形でデザインされた数学である。
さらに,この数学の高級言語化は,文字メディアからの脱皮を伴わなければ一般者のためのものにはならない。そしてこの脱皮を可能にするテクノロジーの今日の進歩を味方につけるとき,以上の文脈から「数学のマルチメディア化」がわれわれの課題になる。実際,本論考の立場は,数学から一般者が疎外されてしまう元凶を数学の「非人間的」なデザインに見て,数学の「人間的」なデザインの可能性を「マルチメディア」に求めるというものである。
なお,一般者とは入門者のことではない。両者は区別しておかねばならない。入門者は専門家を志向する者であり,一般者は専門家を志向しないことを意志する者である。特に,入門者に対する数学デザインと一般者に対するデザインは,同じではない。入門者に対するデザインの考え方は「わかりやすい」であり,一般者に対するそれは「惹かれる」である。既に述べたように,一般者に対しては,学習の解発(リリース)は学習内容そのものの魅力による他ない。
V 「一般者のための数学」のデザイン
5.1 ファンタジーの表現
数学の主題の展開は仮想世界の展開である。数学をデザインするとはこの仮想世界をデザインすることである。特に,数学の視覚化/具象化とは卑近な生活空間をもち出してくることではない。例えば,自然数の加法の視覚化/具象化とは,自然数の加法が用いられる日常場面を提示することではない。実際,ファンタジーのデザインとは「不可視の可視化」なのである。
5.2 意味と現象の区別
主題の現象を知ること(know-how)は,主題の意味を知ること(know-what)とは別のことである。実際,例えば,自然数使用の生活を知ることは自然数の意味を知ることへ自動的に向かうものではない。
主題の現象は,主題の意味から生成されるところのものである。言い換えると,主題の現象は主題の意味の外延である。したがって,「新しく意味を知り,意味からそれの外延を生成する」というのが,数学学習の方法になる。「わかる」の上に「できる」が築かれていくというのが,この学習の形態である。
ところが伝統的に,学習者は「現象を生成するものとして意味がある」ということを十分知らされてこなかった。彼らは「わかる」を欠いたまま「できる」の蓄積に向かっている。実際,学習者の多くが現象の知識を蓄積することが数学学習であると誤解し,数学を暗記科目のように学習している。あるいは,現象の知識の蓄積の先に何かブレークスルーがあると期待して,闇の中の歩行に耐えている。彼らが数学の学習の仕方を知らないのは,結局指導者の能力の問題である。指導者自身が数学の学習の仕方を知らないという面も見逃せない。
しかし,学習の仕方を知っていることは,学習成立の(非常に重要ではあるが)一つの条件に過ぎない。学習の仕方を知っていることとそのような学習を実現できることとは,別のことである。しようと思ってもできないことはある。
問題は,「わかる」,「できる」の実現である。そしてここに,「数学のデザイン」が課題となり,「数学のマルチメディア化」がこの課題の今日的展開になる。すなわち,「伝統的な教授/学習メディアの貧困」という立場から,意味の指導──現象をそれの外延として生成するところのものの指導──に技術的な困難を認め,強力な教授/学習メディアの導入による解決を構想することである。今日のテクノロジーの進歩が,この構想を現実的なものにしている。
5.3 意味の直接表現
数学の主題は,直接的に提示できるに越したことはない。直接的提示をあきらめその場の方便で切り抜けていく指導法では,早晩破綻がやってくる。例えば,数を量の関係概念として主題化することをあきらめて,数を量と混同させる方便を使っていると,分数の除法を正しく指導できなくなる。
主題の直接的提示では,理解モデルとしてのイメージ(図像)をそのまま扱えることができれば,それがベストである。実際,数学教育は,再現性の豊かなメディアを援用することで,はじめて直接的なものになる。
これまで文字メディアを媒介して間接的に表現していたイメージが直接表現できるようになると,《書き手がイメージを文字テクストに込め,読み手が文字テクストから書き手のイメージを再現する》という回り道を解消できる。これは,学習者の不必要な負担の軽減である。
5.4 デザインの観点
デザインすべきものが定まったとき,つぎの問題は実際にどのようにデザインするかである。この問題は,人間工学への配慮という趣きで,「受容,理解,操作,表現等に関する人間の生理的/身体的/認知的/感性的特性を統合的に配慮し,これに適合した有効な数学デザインを探求する」というように一般的に述べることができる。しかしこの問題に対し,「人間工学的知見」の獲得が先行するというような捉え方をしてはならない。実際,人間工学的知見から「数学学習」という極めて高度な複合態を逆構成するというシナリオは,立ち得ない。数学デザインはあくまでも実践的課題であり,これの試行の上に人間工学的知見が反照的に得られてくるという性質のものなのである。
ここでは,デザインの基本的な観点である「わかりやすさ」,「心地好さ」,「近づきやすさ/親しみやすさ」と,これらを横断する「体感的」を本論考の主題と重ね,このとき特に言及すべきと考えるものを述べておく。
(1) わかりやすさ
主題のデザインでは,意味に対する直接性とともに,わかりやすいことが要求される。
この「わかりやすさ」の要素の一つに文脈性がある。主題の文脈──「それは何のためのものであり,何をするものであり,どのように扱うものであるか」──が少しも見えないままでは,ひとは主題の意味──「それは何か」──の学習に入っていくことができない。
実際,指導は循環論法をおかしつつ進む。すなわち,主題の意味の外延として主題の現象があるわけだが,主題の現象への先回りなしに指導は成立しない。
機能性/経済性の観点から,あるいはある種の美的意識から阻却されてしまう冗長性も,「わかりやすさ」の重要な要素である。ひとは,パラフレーズ(言い換え)の揺らぎから一つの像を画定できる。
(2) 心地好さ
一般者が数学の受容に向かおうとすることには,理由がなければならない。われわれは「快楽」──ただし,「人が洗練され,自由になる」が実現されつつある際の内的様相として──をその理由とした。言い換えると,この「快楽」を「一般者のための数学」の唯一の「立つ瀬」とした。
そこで,「わかりやすさ」とは別に「心地好さ」というデザインの問題が立つ。「心地好さ」──見て/使って/操作して楽しい/心地好い──が,「わかりやすさ」のようないわば「知性」的な条件に対する「感性」的条件として,並行して考慮されねばならない。テーマは,機能/性能/経済中心で脱感性の数学デザインに,力動的で美しい感性豊かな数学デザインを対置することである。
本論考の立場では,この「心地好さ」は主題そのものから発する。したがってデザインの要点は,主題に本来そなわっている「心地好さ」を損なわないことである。「心地悪い」ものを「心地好い」ものに演出するのではない。
主題の「心地好さ」を「損なわない」という立場から,「表現の高品質化」が具体的テーマになる。実際,品質が劣ると感じられてしまうと,一般者には相手にされないわけである。そして「表現の高品質化」は,今日的には「マルチメディア化」のテーマに包摂される。
(3) 近づきやすさ/親しみやすさ
既成の数学の提供については,「だれでもが自然に/気楽に/手軽に数学とコンタクトでき,楽しめたり,道具(例えば,コミュニケーションの道具)として使える」ことの実現が課題になる。
このときのデザインのアイデアの一つに「インタラクティビティ(対話性)」がある。実際,数学的主題が仮想世界として提示されるとき,「インタラクション」は学習者がこの仮想世界を知る方法として極く自然なものである。そこで逆に,仮想世界のデザインは「仮想世界にそれの要素としてインタラクティビティをはじめから組み込む」というものになる。
(4) 体感的
「わかりやすさ」,「心地好さ」,「近づきやすさ/親しみやすさ」のすべてを横断するような観点として「体感的」が考えられる。数学を身体で感じられるように,すなわち触覚的,操作的に,デザインするということである。
身体機能を拡大する道具は,思考を洗練し自由にする道具よりも「わかりやすい」。それは知覚/感覚的にリアルタイムに反応が得られるからである。後者も,知覚/感覚的でリアルタイムな反応が得られるようにデザインされれば,わかりやすく,なじめるものになる。
このような感覚指向のアイデアの一つに「臨場感」がある。「大画面」,「3D」,「音響」がこのときのキー・タームである。
「体感的」は「体験的」に通ずる。また,教科の主題はそれぞれに「形」であるが,「形」の体感という方法によって,「形を見る/読む」という伝統的な学習形態が「形をつくる」へと質的に変化する。
5.5 デザインの複数化
「一般者のための数学」という問題を立てることで,既成の数学が「単一のデザインの数学」として相対化され,「デザインの多様化」,「人間指向のデザイン」という発想ができるようになる。
既に触れたように,「数学のデザイン」に最良のものがあるわけではない。例えば,初学者と熟練者のどちらを対象とするかで違ってくるし,使いやすさと学びやすさのどちらを実現しようとするかで違ってくる。
「人間に数学(マシン)を合わせる」は,「既成の数学(マシン)をなくす」ではない。既成の数学は機能性/経済性を最優先した形であり,これの操作に習熟できた者にとっては数学の機能を最も発揮させやすい形である。彼らにとっては,「人間に合わせた」数学は操作の重いもの,かったるいものに感じられる。専門家のための専用システムの特徴は,機能性/経済性(コンパクトで速い),明証性/厳密性(バグが発見されやすい)である。
数学のデザインを段階的に違えること,これが肝心な点である。数学に複数のデザインが可能であるという認識をもち,初心者用からプロ用までのデザインを段階的に考えることが求められる。これは,「各主題のメンタル・モデルを学習段階(初心者から熟練者へ)に応じて変える」という課題である。
ちなみに,初心者用数学では,なじみやすさ/親しみやすさ/わかりやすさを主にして,使用や処理のしやすさ/快適さを従にする。同時に二つを狙おうとしない。実際,習熟が前者から後者に勝手に向かわせる。
VI 新技術と経済発展によるブレイクスルー
「主題のイメージを直接提示する」という課題が現実的なものになるには,技術的/経済的な要件が満たされる必要がある。この意味で,「人はいまの時代になってはじめてこの課題に取り組めるようになった」と言ってよいだろう。
算数/数学科はこれまで,そのデザインを文字メディア──それ自身ではイメージの再現性をもたないメディア──に圧倒的に依存してきている。結果として,メンタルモデルとしてのイメージを明示的な形では提供できていない。算数数学科の「一般者に対する不親切」は,文字メディアの貧しさによって余儀なくされたものと言ってもよい。
時代の制約から非力な文字メディアへの妥協を強いられているのが,現行の指導である。メディアの非力から,〈教える〉をあきらめて〈躾ける〉に替え,〈わかる〉──意味理解──をあきらめて〈できる〉でよしとしてしまう。しかし当座はよくても,早晩,意味理解に基づいて問題解決を生成していかねばならない学習段階に至る。このとき,生徒は全くの不能に陥る。数学教育では,〈わかる〉を避けて通ることはできない。〈わかる〉の欠落した〈できる〉は,高学年に進むに従い確実に破綻していく。
また,現在取り組まれている「学習負担の軽減」は,学習者の数学学習への無関心/無気力との悪循環になり,数学教育を衰退に導く。肝心なことは,《既存の「貧しい」メディアを固定したままで学習者の逃避的傾向に迎合する》のではなく,《「豊かな」メディアの導入によって学習者の主体的参加を実現する》というスタンスに立つことである。
一般教育としての数学教育は,「贅沢な環境」の上にはじめて成立する。非常に高水準の技術と経済的豊かさが,必要条件になる。今日,この条件が満たされつつある。
VII マルチメディア
われわれは「数学教育をコミュニケーションとして実現するための教授/学習メディアの革新」という課題を立ててきた。これの答えは,「メディアの進歩の方向」という考え方に立って求めればよい。実際,「進歩」には,われわれの求める二つのことが含意されている。一つは「新しい世代の知覚を形成するメディア」で,もう一つは「メディアの強力化」である。ちなみに,いまの子どもたちの知覚を形成しているメディアは電子メディアである。
課題に対する答えは,「教授/学習メディアのマルチメディア化」である。情報関連技術のここ数年の飛躍的な進歩が,この答えを示唆している。
算数/数学科の教授/学習メディアのマルチメディア化の意義は,「数学的主題への関心を喚起しかつその主題の本質的理解へと導く」力を持ったメディアへの移行ということである。教授/学習メディアがこのように強力であれば,「数学学習への不適応」の解消と〈教える→わかる〉の路線の実現(〈躾ける→できる〉の路線の阻却)という二つのことが,同時に解決される。
マルチメディアにわれわれが見込んでいる「力」は,主題の直接的提示を可能にする力である。数学の主題を直接的/本質的に提示しようとすれば,それは図的/身体感覚的なものになるが,それはマルチメディアの上ではじめて実現できるようなものである。電子メディアは,数学的主題の直接的な提示を可能にする程に十分強力である。方便と称して主題を歪めて提示する必要はない。
「力」の内容として「時間的/空間的/物理的な制約から自由にする」という点にも注目しておこう。いままでの教授/学習活動の中で時間的/空間的/物理的な制約を受けていた部分が,マルチメディア技術の援用によって制約から解き放されるようになる。脱(超)時間的/空間的/物理的な創造活動の道が開ける。
おわりに
「通信ネットワーク社会」において,探究/コミュニケーションのパーソナル・ツール──「ポータブル化/高性能化が完璧に実現されたパーソナル・コンピュータ」──の存在が「学校」を根底的に変えてしまう。ただし概念としてはわかるが,具体的なところはわからない。教授/学習メディアのマルチメディア化が具体的な作業になりにくい理由がここにある。「マルチメディア」を問題にするとき,いまはどのような意味でも過渡期である。
ここに,「先が読めない」という言い方で「待機」を決め込む人がいる。しかし同じ理由で,時代への「作為」を楽しむこともできるだろう。「マルチメディア」はすぐれて実践的課題である。そして「マルチメディア」をめぐる「不明」は苦痛ではなく,むしろスリリングである。はじめに述べたように,「デジタル革命」としての「メディア革命」は「産業革命」である。人は歴史の転換期にそうそう立ち会えるものではないが,まさしくいまはそのときである。
参考文献
M. マクルーハン,栗原・河本(訳),『メディア論』,みすず書房,1987 (原著 1964)
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