「教育空知」(空知教育研究所), no.580 (2000,3), pp.49-52.




教育エッセイ
変革の時代にあって

[略歴]
 1976 年 東京教育大学理学部数学科卒業
 1983 年 筑波大学博士課程数学研究科退学
 1983 年 金沢大学教育学部助教授
 1993 年 北海道教育大学岩見沢校助教授
[仕事]
 http://m.iwa.hokkyodai.ac.jp/






__

北海道教育大学岩見沢校
助教授 宮 下 英 明


「たいへんな時代」
 「たいへんな時代に遭遇しているなあ」という実感を,それぞれ居る場所は違うにせよ,みなさんもたれていると思います。実際,新ミレニアム突入にふさわしく(?)なんとまあいろんなことが一度に起こってきたことか。
 今日の変革の規模の大きさの理由,それは,政府の行財政改革,日本型経済システムの行き詰まり,情報革命といった一つだけでもたいへんな内容が,同時に重なって起こっているというところにあるでしょう。これらは,本質的には互いに独立して現れたように見えます。しかしいっしょになれば,互いに強い力で作用し合うわけです。

「たいへん」の内容
 「たいへん」の内容をひとことで言うと,「合理化」です。いろんな場面で「合理化」が求められているわけです。
 「行財政改革」は,国という企業の経営を健全化するための「合理化」です。「一度つくってしまえばそのまんま」のようなことをいろんなところでやったため,行政組織が肥大化してしまいました。「こんなものいるの?」,「こんなに大きい必要があるの?」,「どうしてこんな非効率をつづけるの?」と問われそうな組織が,国の財政を圧迫しているわけです。
 「日本型経済システムの行き詰まり」は,日本型社会主義と言われてきたものの崩壊です。「護送船団方式」が,大蔵省─銀行の関係のみならず,いろんなところでやられていました。たとえば,文部省─教科書会社の関係も,これです。教科書の体裁は一社の突出がないように,結果的に全体が横並びになるように,細かく規制されています。結果,どれを選んでも大差ない教科書になっています。
 日本型社会主義は,もうすでに保たなくなっています。理由は,日本企業が個々に外国企業と互角の競争をしなければならない立場に立たされるようになったということです。── (1) 国内での労働賃金が高くなった結果,「低価格」を商品の強みにすることはもはやできなくなり,独創的に付加価値を創出しそれで勝負する方向への転換を余儀なくされています。(2) 経済大国になった結果,自分本位の市場閉鎖的なやり方は許されなくなりました。外国企業に対する市場参入の規制緩和が今日の流れです。
 そしてこのような状況では,企業は強い国際競争力をもたなければ生き残っていけません。というわけで,現在ものすごい規模の企業合理化が進行しているわけです。行政もつぎつぎと規制緩和策を打ち出しています。
 この競争傾向に「火に油」といった感じで関係しているのが,「情報革命」です。情報技術の意義をひとことで言うと,桁ちがいの能力/能率向上をもたらすということです。しかも,0が一つ違うという程度ではなく,2個も3個も,あるいはそれ以上も違うといった感じのものです。結果,情報技術は競争に勝ち残るための武器と位置づけられ,企業合理化と情報戦略が現在一体で進行しているわけです。

少子化
 少子傾向も,「たいへんな時代」の重要な要因の一つです。そしてこれは,学校教育においてはことさらに深刻なテーマです。
 公教育での少子化の直接の影響は「教室の減少」です。この結果,教員の新規採用が減り,教員の「新陳代謝」が阻害されることになります。現在の終身雇用の制度では,学校教員の老齢化という事態に進行します。(行財政改革がらみでは,教員を正規採用ではなく臨時採用で補充するという傾向が強まることも予想されます。)
 教員の需要の減少は,わたしが所属している北海道教育大学のような教員養成系大学/学部では,「学生定員の適正化」という形で,大学/学部リストラの問題にふりかわってきます。実際,「適正学生定員」に関しては,国立のすべての教員養成系大学/学部が不合格と言えます (http://h.iwa.hokkyodai.ac.jp/rs/univ/univ_employ/ 参照)。需要数を大きく上回る数の学生を入学させているわけです。
 ちなみに,今年度の道・札幌市公立学校教員採用試験には,11,003 名が受験しました。そしてこのうち来年度正規採用されることになるのは,817 名です。北海道教育大生は,現役(いまの4年生)浪人(過年度卒業生)ふくめてこのうち 299 名。そして,現役の合格者数はわずか 120 名です。この 120 を彼らの入学時の教員養成課程入学定員 1030 で割ると,11.7%という結果になります。なお,毎年受験者数が積み上げられますから,現役合格者の数はすぐにも2桁になってしまうでしょう。道外の大学ではほぼ10年近くも前から起こっていたことですが,北海道教育大学もついにこれの仲間入りをすることになったわけです。
 新規卒業生のうち正規採用される者の割合が 10% 前後のような教員養成系大学/学部の場合,学生が正規採用されなかったことは本人の能力/努力の問題でしょうか?わたしは,「被害」だと言いたいです。「教員養成系大学/学部」の看板を掲げながら,学生定員を適正化せず,いたずらに何年も「被害者」を出し続けている教員養成系大学/学部は,犯罪的と言っても過言でないでしょう。国立大学では,それでなくとも行財政改革がらみで構造改革が課題になっています。教員養成系大学/学部は,いまほんとうに性根を入れて「合理化」に取り組まねばならなくなっています。
 そして私学。私学のたいへんさは,いまさら言うまでもありません。数字的には数年先に「大学全入」の状況がやってきます。国公立私立入り乱れてのほんとうに熾烈な学生獲得の競争が,この先展開されることになります。

人材育成の教育
 行財政改革,日本型経済システムの行き詰まり,情報革命,少子化等が一度に重なり,いまの日本は「どこを見ても生き残り競争」という状況です。
 「生き残る」ということはたいへんなことです。きれいごとではありません。競争的状況から離れて悠々自適の生活をみなが送れるほどに,日本は豊かではありません。「競争やめちゃえば」とは言えないわけです。全員は必要ないが,やはりだれかには「企業戦士」,「突出した技術者/研究者」をやってもらわねばならない。そして,国の施策としては,この面での有能な人材をつくらねばならないわけです。
 人材育成は教育の仕事です。そして,「生き残る」ということが決してきれいごとでないように,「生き残る力のある人材」育成の教育もきれいごとでは済みません。
 ある国があるスポーツ種目で国際的になることを企画したとしましょう。その国は,その種目のすそ野を広げることからはじめて,能力ある者がしぜんと選別されていくようなシステムをつくります。教育的な負荷も,すそ野レベルの段階からすでに,ある程度高めに設定します。全体にかける負荷が弱いと頂上が高くならないからです。人材育成の教育も,この能力選抜のやり方と基本的に同じ形になります。
 この場合の問題点は,「大多数がその道に進むわけでもないのに付き合わされた」ということです。わたしは数学教育を専門にしていて,いつもこの種の問題とぶつかります。「こんなの社会に出て使うわけでもないのに何で勉強しなけりゃならないの?」という疑問(文句)は,生徒から出てきて当然です。
 ただ,ここが教育の難しいところですが,だからといってなくしちゃうとまた困ったことが起きてくる。実は,教科教育は,「基礎体力」の育成という面でも本質的に効いているのです。教科教育を緩めるなら他の何で「基礎体力」を育成するのか,という問題になってきます。能力というのは,「できる・できない」といった感じの単純なもんじゃないんですね。
 「基礎体力」のある人間の育成は,「生徒にとって負荷がちょっと大きいかな」という程度の指導をしなければ,できません。「ゆとり」の教育施策は,負荷レベルを全体的に低く設定した結果,「基礎体力」に難のある若者を生み出すという問題点を残してしまいました。また,高等教育の方にしわ寄せする結果にもなっています。
 しかしいずれにせよ,人材育成の教育は進めなければなりません。いま日本の国際的競争力が危ぶまれていますが,低資源の国日本は,国際的競争力を失うとダメになってしまう国です。「競争やめちゃえば」は言えません。ちなみに学校教育に「情報教育」が導入されることになりましたが,「みなにとってこれからの時代必要になるから」という理由とならんで,「情報で遅れを取ると国際的競争力を失う」という理由があります。

「たいへんな時代」には前向きに
 「たいへんな時代」は,従来型が行き詰まり新しいシステムが誕生するプロセスです。システムの新陳代謝です。「新陳代謝」という新鮮な響きに導かれ,わたしたちは「たいへんな時代」をむしろ前向きに受け止め,取り組んでいきたいものだと思うのですが,いかがでしょう。