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「一般教育としての数学教育」の意義
数学教育は,伝統的に,人間教育の一環としてこれを捉える立場から重視されてきました。形式陶冶の立場です。
西欧ではかつて数学と並ぶ形式陶冶科目としてラテン語の称揚されていた時期がありましたが,こっちの方は既になくなっています。しかし,数学をラテン語のように学校教育からなくすことはできません。「数学離れ」の傾向とは逆に,時代はますます数学的処理を必要としています。
「数学のできる社会成員の育成を目指した専門科目」としての数学科はなくせないということです。「実質陶冶としての数学教育」については,しっかりとした理由/意義があります。
「一般教育としての数学教育」の方はどうでしょう?これが維持されねばならないとしたら,その理由は何でしょう?
「一般教育としての数学教育をやめて困ることは何か?」というように考えてみて下さい。
すぐわかることは,一般教育を先行させずに専門教育,専門職はあり得ないのです。
一般教育は,能力を選別する試験紙として機能します。学習者は一般教育の中で自分の適性・能力を他者との比較において認識し,自分の進路を決めていきます。特に,この中から少数が専門教育に進み,そして専門職に就くというわけです。
学習者にとっての「一般教育」の意義は,「自分を知るようになるプロセス」だということです。
これは一方の側から見れば「選別」のプロセスですが,個人にとっても「選別」のプロセスがなかったら困るわけです。
しかし,「一般教育としての数学教育」の中で「数学が好きでない」あるいは「数学ができない」ことが明らかになった生徒については,どう考えたらよいのでしょう。彼らににとって,これまでの学習経験は無駄だったことになるのでしょうか。将来使いそうもないことを学習させられてばかを見たことになるのでしょうか。そして,さらに学習を続けなければならないのでしょうか。
彼らは教師にこう問います。「数学をやって何になるんですか?」
数学教育関係の本を開くと,「一般教育としての数学教育」の意義がいろいろと述べられています。しかし,「きれいごと」が述べられている感は否めません。「数学をやって何になるんですか?」の問いに対する答えにはならないでしょう。気恥ずかしくて使えないでしょう。
理屈はいつも後から来ます。「合理化」というわけです。
単純なことですが,教育は「少数の人」から「すべての人」へとその対象を広げてきたという点に注意しましょう。
受け手の側には,「優位獲得の機会の均等」の意味があります。したがって,教育を受け始める時点では文句は出ません。しかし,優位獲得に至るのは少数です。「落ちこぼれ/落ちこぼし」は最初から予定されていることがらです。冷徹な言い方になりますが,それは教育の機能です。
先の問題に戻りましょう。
「一般教育としての数学教育」の中で「数学が好きでない」あるいは「数学ができない」ことが明らかになった生徒については,どう考えたらよいのでしょう。これまでの学習経験は無駄だったことになるのでしょうか。さらに学習を続けなければならないのでしょうか。
「どんな経験も無駄にはならない」という意味では,数学学習は無駄にはなりません。しかし,そのような消極的な理由において数学学習を合理化しようとする人はいないでしょう。例えば,同じ穴を掘っては埋め掘っては埋めを繰り返す無意味な経験と数学学習の経験は,違って欲しいと思うでしょう。
わたしの考えは,こうです。
「数学をやって何になるんですか?」の問いに答えることはできません。相手は納得させる合理化はありません。
一方,「一般教育としての数学教育」は国/社会の運営の立場からは必要です。それの意義は,
- 「数学のできる社会成員の育成」の前処理としての能力選別
- 社会成員全般の能力維持/向上
です。
後者は,個人を納得させる理由にはなりません。全体主義的な理由は個人を納得させる理由にはならないという意味においてです。
言うまでもないことですが,強調しておきましょう。教育を考える上で個人と社会は区別して考えなければなりません。