Up 現行に対するスタンスのとり方 作成: 2000-07-17
更新: 2013-08-07


    現行は,信用してかかるというものではない。鵜呑みにしてかかるというものではない。
    実際,過去を振り返ってみれば,指導方針 (学習指導要領) が何度も大きくぶれていることがわかる。
    即ち,ほぼ20年周期で,<数学>(「基礎基本」) と<数学>(「生きて働く力」) の間で,振り子が揺れている。

    指導方針をつくっているのは,所詮,ヒトである。
    したがって,時代の流れ・雰囲気 (ブーム) や作成担当者の個性(<分際>)が,決定的に作用する。
    (農政を「ノー政」と呼ぶなら,教育行政も「ノー政」と呼ばねば不公平というものである。)


    実際のところ,「生きて働く力」は, <深い実質陶冶>を内容とするところのものである。したがって,「ゆとり=学習内容軽減」の形で現れる「生きて働く力」の陶冶は,ウソである。
    「生きて働く力」を身につける方法は,<実質>の修行の他にはない。

    「生きて働く力」の立場は,「学習者本意」──「学習を強いる(=教える) のではなく自発的な学習を支援する」──のイデオロギーとも近接している。
    そこで,これが優勢の状況では,学校教員は教えることに罪悪感を持つようになる。

     註 : 教えることに罪悪感を持つようになった教員は,指導案のフレーム
     
       教師の働きかけ        生徒の反応    
       
    を悪しきものに思い,つぎのように変える:
     
        生徒の活動         教師の支援    
       
    また,行政側もこの時代風潮に対応して,「学習内容の精選」の名の下の,学習内容削減を打ち出してくる。

    しかし,学習内容削減は,
      「学習内容を少なくして,そのかわり深く理解させ,真に学力をつける」
    にはなってくれない。実際,
    • 学校教員の能力に関わることとして,学校教員は「ゆとり」を使えない。
      即ち,学校教員は,何を以て「ゆとり」を埋めたらよいかわからない。しかし,何かを以て埋めねばならない。そこで,いろいろなことをやって「ゆとり」を埋める。そしてこれが,どれも外れという様になる。
    • 学習のメカニズムに関わることとして,学習内容を減らすことは,これまでの学習──なんとか成立していた学習──を失わせることになる。
      なぜなら,ある一つのことAを理解するとは,Aに関わるいろいろなこと(Aでないもの,Aに類するもの,Aの在る風景,等々) をあわせて理解することであるが,この「いろいろ」が減らされることになるからである。
    こうして,学習内容の削減は「深い理解」「学力をつける」の手法にはならない──まったく逆のことをしていることになる。


    肝心な「学習内容を豊かにする」を損なうことは,やるわけにはいかない。 本来意を注ぐべきは,
      「学習内容を豊かにする」が,学習者の側での「暗記内容が増える」にならないようにする
    ことである。これは,「勉強の仕方」の指導ということになる。
      ちなみに,教科書の厚い・薄いの問題としていえば,薄い教科書ではなく分厚い教科書が正解である。 問題なのは,厚くなることを「覚えることが多くなる」と思わせる(根底には,「勉強=覚える」と思わせる)──そんな教育風土である。


    学習指導要領の「学習内容の削減」でさらに困るのは,主題の本質を無視した転倒が行われることである。
    例えば,平成10年12月14日告示の学習指導要領では,算数科に「線対称・点対称」がなくなって,中学校の内容になった。 しかし,算数科の「二等辺三角形」,正多角形(「正三角形」「正方形」),「円」は,「対称な形」の主題である。( 対称)


    したがって,「数学教育を保守する」というスタンスが,必要になる。
    望むらくは,それぞれが,適正なスタンスをとることとして,確信犯的に学習指導要領を無視するといった芸当もできることである。 但し,これは学校教員一般に望むというものではない。 実際,このスタンスは「学校数学の主題を深く理解する精進・修行」のたまものだからである。