11.3.1 単位決定の恣意性
単位は,ひとが恣意的に決める。
このことは,稠密量が対象のときには,意識され易い。稠密量では,ある特定の量(大きさ)を特権化する理屈が見出せないからである。──理屈が見出せるとすれば,それは量(カテゴリー)それ自体にではなく,この量(カテゴリー)の関わる生活形態に見出せるのである。(例えば,時間の単位の“年",“日”の場合のように。)
これに対し,離散量では,“単位の恣意性”の概念は意識に上り難い(註)。実際,離散量は,〈個〉として特権化してしまう或る対象性が存在するからこそ“離散量”なのである。──この〈個〉に読まれた量(大きさ)が,任意の量(大きさ)をそれのいくつ分(整数倍)の形に表現できる量(大きさ)として特権化されるのは,自然なことである。
(註) 離散量に関する“単位の恣意性”を“離散量への解釈の恣意性”と混同しないよう注意しよう。例えば,
- 紙は,2枚ずつ数えることも,5枚ずつ数えることもできる;
- 紙は,1枚2枚と数えられる一方,束が一つ二つとも数えられる;
では,前者は“単位の恣意性",後者は“異なる離散量の解釈”の話である。