Up 数学テクスト批判 作成: 2018-01-27
更新: 2018-01-27


    数学のテクストは,ほとんどが酷いものである。
    「リーマン多様体/幾何学」のテクストの場合だと,例外なく酷い。

    酷いテクストは,数学の不幸である。
    <わかったふり>を,互いに強いられるからである。

    数学の学習は,<わからない>から始まる。
    教授は,<わからない>を<わかる>に導くものでなければならない。
    しかし,酷いテクストが<わからない>を導く先は,<わかったふり>である。


    酷いテクストが許されてしまうのには,数学の方法論にも原因がある。
    数学は,形式主義・規約主義を立場にする。
    これは,統辞論 syntax をやることになる。
    <わからない>は,意味論 semantics である。
    数学は,意味論の疑問に対しては「好きに考えよ」の構えをとる。

    この構えの前に,意味論の疑問は沈黙させられる。
    理論の意味を考えたことがあるのは,理論を創った者だけである。
    後から来た者は,考えない。


    意味を考えない数学学習は,表層的な辻褄合わせに終始する。
    そして,表層的な辻褄合わせができることを,<わかる>にする。
    数学のテクストは,ごく僅かの例外を除き,表層的な辻褄合わせを数学にしているテクストばかりになる。
    「リーマン多様体/幾何学」のテクストは,例外なく,表層的な辻褄合わせを数学にしているテクストばかりである。


    ところで,「リーマン多様体」の論述は,循環論法になるしかない。
    「所与」設定を一度にしようとすると,それだけで理論全体になってしまう。
    したがって,本来は「所与」に属することを小出しにしていく。
    そしてこれは,循環論法の(てい)になる。

    学習者は,このスタイルにすっかり参ってしまう。
    五里霧中に落ちてしまうのである。
    しかし,「リーマン多様体」の循環論法は,問われることがない。
    「リーマン多様体」が構成レベルの高い理論なので,循環論法が見えにくく,ごまかされてしまうのである。


    学習者は,わからないのを自分のせいにする。
    教授者の方はといえば,わかっていないのにわかっているふりをして,学習者の疑問に対してはトンチンカンな答えを返すばかりである。
    学習者は,このトンチンカンな答えを理解しようとする。
    そして,わからないのを自分のせいにするか,受けとめた風をポーズするかのいずれかになる。

    尤もこれは,人の(さが)といったものでもある。
    ひとは,権威主義が身に染みついているので,<わかっている者>の存在を自分で勝手に立てて,わからないのを自分のせいにするのである。


    学習者は,自分で勝手に落ち込まないために,つぎのことを知るべし。
    教授者は,<わかっている者>だから教授しているのではない。
    <教授を役割とする者>だから教授しているだけである。
    教授者は,わかっているふりをするのが務めである。
    したがって,学習者からの質問に対しては,それがトンチンカンな答えでも,答えねばならないのである。
    実際,教授者は,学生の延長である。


    こういうわけで,わかったふりをしない「リーマン多様体」のテクストをつくってみることにした。
    「リーマン多様体」の意味論的テクストというわけである。