Up はじめに ──論考の趣旨・目的・構成 作成: 2009-09-08
更新: 2010-09-28


    数学教育学で論理上最初にくる問題は,「数学教育とは何か (何をすることか)?」である。 そして,「数学教育は何のためか?」である。
    実際,「数学教育とは何か?何のためか?」の問いを閑却した体(てい)で数学教育を立てるというのは,論理としてあり得ない。

    しかし,数学教育は,個人にとっては,所与 (=惰性) として存在する。
    一般に,ひとは所与に対しては「何か?何のためか?」の問いを起こさない。 数学教育でも,「いかに行うか?」が専らになる。

    一方,ひとは,数学教育に矛盾や不具合を感じることになる。 そしてこの感じが昂じるとき,ひとは「何か?何のためか?」の問いを起こす。


    学校数学の現前は,学校数学が必要であるということ,教育上プライオリティが高いということで,合理化される。 必要であること・プライオリティが高いことは,証されねばならない。 そして,証すとは,論述を以て証すということである。

    しかし,この論述をつくることは,難題である。
    学校数学の<なに・なぜ>の答えをつくることができないため,<なに・なぜ>に対しては,消極的閑却で応じるふうになる。 <なに・なぜ>を問われれば答えに窮するという体(てい)に,自ら甘んじるふうになる。

    そこで本論考を以て,学校数学の<なに・なぜ>の答えをつくろうとする。


    何か?何のためか?」の問いに対する答えのつくり方には,個の多様性が現れる。 そして,「何か?何のためか?」の考え方で優勢になったものが,学校数学を引っ張るようになる。
    一方,そのムーブメントは,成果を示すことなくいつの間にか消えていくのが常である。すなわち,失敗で終わる。 考え方の<浅薄>を結果的に示すことになる。 そして,別の考え方が優勢になり,学校数学を新たに引っ張る。

    歴史的に,この運動は同じことの繰り返し──すなわち,振り子運動──になっている。 実際,いわゆる実質陶冶と形式陶冶の行ったり来たりである。

    <浅薄>な考え方をしてしまうのは,つぎのことが理由である:
    1.「何か?何のためか?」の答えは,単純なものではない。
    2. ひとは思いつきで答えをつくり,そして自分の思いつきに満足する。
    また,同じことの繰り返しになるのは,世代忘却のためである。


    そこで,「何か?何のためか?」が改めて主題化されてくる。 ──この問いに対する答えを<根柢的な答え>としてつくることが,課題になる。

    なぜ学校数学か?』を標題とする本論考は,「何か?何のためか?」のうち「何のためか?」の方を先ず論考しようとするものである。 このときは,学校数学を所与とすることになる。

    論考は,論考のフレームを提示することから始める。 最初の「論考フレーム」の章がこれである。 そしてこれは「論考の概要」を兼ねる。

    論考の本体は,「「なぜ学校数学か?」の論考を主題化する理由」の章から始まる。 ここでは,「何のためか?」がどういう主題なのかを捉える。
    主題の捉えは,論考フレームの構築と互いににフィードバックする関係にある。 したがって,本論考の終わるときが,論考フレームの最終的にまとまるときであろう。


    何のためか?」は,内容的に,「何か?」と互いにフィードバックする関係にある。 「何のためか?」の論考には,自ずと「何か?」の論考が含まれる。 すなわち,『なぜ学校数学か?』には『学校数学とは何か?』が含まれる。
    この『学校数学とは何か?』は,本論考『なぜ学校数学か?』とは別途に著す予定である。 ただし,『学校数学とは何か?』への導入ないし内容の予告として,本論考の最終章に「学校数学の形」をおく。