本論考は,学校数学を<食べる・運動する>の一つとした。
そこで,つぎのようになる:
|
きちんとした数学をきちんと勉強することが,結果的によいカラダをつくる。
卑近な「役に立つ」を考え,これに直接向かう具合に学校数学を編成することは,成長する子どものためにならない。
|
「きちんとした数学をきちんと勉強させる」は,「実質陶冶」である。
よって,つぎのようになる:
「学校数学の勉強は役に立つ」の「役に立つ」は,道具の「役に立つ」ではない。
学校で勉強した数学が将来使われることがあるかどうかは,考える必要がない。
高校数学で複素数 (平面ベクトルのスカラー) を扱うことは,高校生のためになる。ただしその意味は,道具の「役に立つ」ではない。
学校数学は一般陶冶として立てるものになるが,この一般陶冶の形は「実質陶冶」である。
そこで「実質陶冶」とは,本論考の立場では,つぎの主張のことになる:
|
「学校数学の勉強は役に立つ」が実現されるためには,学校数学は内容的にしっかりしたものでなければならない。──すなわち,真に/本質的に数学でなければならない。
|
|