Up | 所与・惰性としての学校数学──意義についての思考停止 | 作成: 2009-08-24 更新: 2011-10-20 |
論理としては,「必要である」と思われているからである。 そして,論理としては,必要の理由の把持があって,「必要である」となる。 ここで「論理としては」という言い方をするのは,実際はこれとは違うからである。 先ず,学校数学は個人より先に既にある。それは,個人にとって所与である。 一人ひとりの「必要である」の思いが学校数学を存在させているのではない。 つぎに,ひとは学校数学の必要の理由を持っていない。持たないで済ませてきている。──学校数学の必要の理由は,持たないでも済ませられる。 学校数学は,所与であり,惰性である。 そして,所与・惰性のものにそれの存在理由を考えることは,一般にわれわれの能くしないところである。 |