Up | 生徒に<勉強=カラダのジタバタ>をさせる | 作成: 2013-10-20 更新: 2013-10-20 |
よけいのこと,「説明」とかお体裁の「指導」で教えられるものではない。 授業とは,生徒を<わかる・できる>に至らせるプロセスのことである。 「1次関数」に限らず,「説明」やお体裁の「指導」は授業にならない。 勉強はカラダでするものだからである。 勉強は,カラダのジタバタである。 授業は,生徒にカラダのジタバタをさせることである。 翻って,カラダのジタバタを生徒にやらせることができていない「授業」は,授業ではない。 よって,ほとんどの「授業」は授業でない。 教員養成課程の学生に授業づくりを課せば,授業の体裁をつくる。 授業が何をすることかわからないので,授業づくりを授業の体裁づくりに代えるわけである。 授業が何をすることがわかるのは修行のたまものであるから,体裁づくりは教員になったら改まるというものではない。 実際,ずっと続く。 今日,教員は,授業を<授業の体裁づくり>でやる。 このとき,生徒にカラダのジタバタをやらせることは,授業の体裁にのらない。 よって今日,「生徒にカラダのジタバタをやらせる」はますます行われなくなっている。 「1次関数」の数学は,「量の比例関係の上の位対応」 の場合だと,つぎのタイプの問題を50題くらい繰り返し解いていくとつかめてくる,といったものである:
漢字を覚えるのと同じである。 外国語の言い回しがカラダに入るのと同じである。 「量の比例関係の上の位対応」 の神経回路がつくられるためには,「50題」くらい要るのである。 カラダはそれくらい不自由である。 しかし,見方を《「50題」やればカラダは「アフィン空間・アフィン写像」を覚えてくれる》に変えれば,「カラダとは,たいしたもんだ」となるわけである。 |