Up | 論争は,学校数学の「1あたり量 × いくつ分」をめぐって | 作成: 2012-01-08 更新: 2012-01-08 |
「かけ算の順序」論争は,「1あたり量 × いくつ分」に疑義が起こるところから始まる。 すなわち,「1あたり量 × いくつ分」に疑義をあげる者は,「なぜこの順序でなくてはならないのか?」と問う。 そして,この疑義は,妥当である。 しかしこの場合,「1あたり量といくつ分」の考え方は,批判の対象になっていない。 疑義をあげる者は,「1あたり量」「いくつ分」の考え方を受け入れた上で,「なぜこの順序でなくてはならないのか?」「いくつ分 ×1あたり量 ではなぜダメなのか?」と問うのである。 しかもこの論者は,つぎのステップで完全に誤る。 すなわち,「順序はどちらでもよい」「順序にこだわらなくてよい」に短絡してしまうのである。 数学と違うことを唱えるわけである。 「なぜこの順序でなくてはならないのか?」がどうして「どちらでもよい」に行ってしまうのか? 論者に,<「かけ算の順序」の数学>という考えがないためである。 そして,<「かけ算の順序」の数学>という考えがないのは,これに出会って学習するということがなかったためである。 さて,「どちらでもよい」の疑義には,遠山主義者がリアクションする役回りになる。 この疑義が自分の否定になるものだからである。 このとき,良質な遠山主義者は,この疑義を正しく「なぜこの順序でなくてはならないのか?」の問いとしてとらえる。 そして,この問いが遠山主義の根幹を射るものであることを見て取る。 実際,「1あたり量 × いくつ分」のこの順序には,論理がないからである。 この遠山主義者は,遠山の著作に答えを求めようとする。 しかし,答えは見つからない。 却って,遠山の杜撰を見て取ることになる。 実際,「かけ算の順序」の論難は,遠山の杜撰のつけである。 遠山は,当時の日教組の教育運動の中で,学校数学の現行に対立軸を立てることを自らに課した。 アイデアは,《数学を唯物論の上に立てる》である。 そして「数と量」において,「量」を唯物の側に引き寄せ,「数」を「量」の抽象ということにした。 このとき,数の積は,量の積の抽象でなければならない。 しかし「量の積」というものはない。 よって「量の積」を無理矢理編み出さねばならなくなる。 これが,「1あたり量 × いくつ分」である。 また,このときの二つの量の異質に対しては,「内包量と外延量」という説明を用いた。 奇態な論であるが,これが広く受け入れられることになる。 「1あたり量 × いくつ分」は,理由を問うものではない。 なぜならこれは,唯物の側の事態だからである。 唯物の側の事態は,つべこべ言うことではない。 それは,存在/自然/宇宙の事実なのであるから。 このように,唯物論は,理由付けに蓋をしていける便利なものである。 ただし,これを共通言語にしている者の中では。 遠山啓は,裸の王様になっていた。 そして「王様は裸」を言われることになる。 「1あたり量 × いくつ分」の順序への疑義は,「王様は裸」を言っているのである。 まとめ 「かけ算の順序」論争は,つぎが基本の構図になっている: |